第7話:黄金の細工と、こだわり抜くファインダー
公開された上野東照宮の特集ページは、瞬く間にWEBメディア「癒しの場所へ」のアクセスランキングを駆け上がっていった。総金箔張りの金色殿の圧倒的な輝きを捉えたAチームの写真と、幾多の戦火を潜り抜けた「不滅の建築美」を重厚に紐解いたBチームの記事のシナジーは、かつてないほどの反響を呼んでいた。
「見てください、チーフ! アクセスの伸びが過去最高を更新してますよ!」 オフィスの中心で、まゆみが歓声を上げる。その横で近藤も「いやあ、苦労して金色殿のアングルを合わせた甲斐がありましたね!」と満面の笑みだ。
その盛り上がりを少し離れた席から眺めながら、チーコは手元に置いたタブレットの画面をじっと凝視していた。表示されているのは、もちろん上野東照宮のページだ。
(……確かに綺麗にまとまっている。Aチームの華やかさも、Bチームの歴史の重みも完璧。……だけど!)
チーコのなかのプロカメラマンとしてのプライドが、ジリジリと音を立てて疼き出す。 (唐門に施されたあの極小の彫刻の立体感、透塀から差し込む木漏れ日の陰影、そして総金箔の社殿が放つ重厚なテクスチャー……! 私の新しいマクロ・単焦点レンズの描写力を使えば、肉眼では見えないほどの細密な美のドラマを完全に見せつけられるのに……!)
いてもたってもいられず、チーコはパタンとタブレットを閉じると、一直線にデスクの向こう側に座る蒼井のほうへと歩いていった。
「――チーフ」 「ん? なんだ、チーコ。次のサイクルの企画書なら、まだ期限には余裕があるはずだが」 「そうじゃなくて!」
チーコは蒼井のデスクに両手をつき、至近距離でその顔をのぞき込んだ。突然の接近に、蒼井は「おまっ、またかよ……」とわずかに体を引く。
「上野東照宮のビジュアルです! 確かに今の写真も悪くないですけど、私の新しいレンズを通したら、あの金色殿の金箔の粒子や唐門の木彫りの精緻さがもっと生々しく、芸術品のように浮かび上がるんです! 悔しくて今夜も眠れそうにありません!」 「いや、すでに特集として一般公開されて大好評なんだぞ。今さら何を……」 「ダメです! プロとして、あの建築の極限の美を私の手で余すところなく捉え直さないと気が済まないんです!」
熱っぽくまくし立てるチーコに、蒼井は盛大な溜息をついた。 「お前の写真に対する異常なまでの執念はよく分かった。だがな、もう公式の連載は終わって――」
「公式じゃありません、プライベートです!」 「プライベート?」 「そうです! 休日返上で、私服で、完全に個人の研究としてリサーチに行ってきます! ……あ、でも、徳川の歴史が眠る荘厳な境内を一人で歩くのは心細いから、チーフ、私服で私のリサーチに付き合ってください!」
「なんだと……?」 「ほら、チーフだって、家康公の勝負運や東照宮の歴史的背景を、もう一度現場の空気を吸いながら肌で感じておくべきです! 素晴らしい一日のためのロケハン兼、大事なお参りですから!」
「いや、どう見てもただのデートの誘いだろ、それ……」 蒼井が鋭くツッコミを入れると、チーコはわざとらしく窓の外へ視線を逸らした。 「聞こえませーん! 明日の日曜日、朝十時に上野駅の公園口ですからね! 遅刻したら私のカメラバッグをチーフの私物入れに永久封印しますから!」
「おまっ、その脅し文句、毎回パターン化してないか……!」
半ば強引に、かつ最高に魅力的な笑顔で迫るチーコを前に、蒼井は降参したように頭をかいた。しかし、その耳たぶがうっすらと赤くなっているのを、チーコは見逃さなかった。
(よし、今回も完璧にペースを握った……!)
心の中でガッツポーズをしたチーコは、「じゃ、明日の準備してきまーす!」と軽やかな足取りで自分の席へと戻っていく。 その背中を見送りながら、蒼井は小さく呻き声を漏らし、天を仰いだ。
「……まったく、いつの間に俺はあいつの術中に完全にハマるようになったんだか……」
少し離れた席からそのやり取りの一部始終を見守っていた佐久間とやよいは、顔を見合わせてクスッと上品に微笑み合うのだった。
第8話:静謐の杜で交わす、未来へのまなざし
日曜日、午前十時のJR上野駅・公園口。 待ち合わせ場所に立っていた蒼井は、約束の時間ぴったりに現れたチーコを見て、思わず言葉を飲み込んだ。
今日のチーコは、上品なキャメルのトレンチコートに黒のタイトスカートという、歴史ある東照宮の厳かな雰囲気に完璧に調和したシックな装い。首から下げられた一眼レフカメラが、かえってその洗練された佇まいを引き立てている。
「お待たせしました、チーフ!」 少し小走りで近づいてきたチーコが、ぱっと花が咲くような笑みを浮かべる。いつもより大人びたその雰囲気に、蒼井はわずかに視線を泳がせた。
「……あぁ、待ってない。その、なんだ……よく似合ってるな、その格好」 「本当ですか? 上野東照宮の重厚な金色殿や唐門の景色に馴染むように、ちょっとだけ背伸びして選んできました!」 嬉しそうに目を細めるチーコに、蒼井は「行くぞ」とわざとそっけなく言い残し、歩き出した。その後を、チーコは弾むような足取りでついていく。
鬱蒼とした木々が作り出す木漏れ日のなか、ふたりは上野東照宮の参道へと足を踏み入れた。 周囲の喧騒が嘘のように静まり返り、一歩ごとに空気が引き締まっていくのを感じる。
「わあ……綺麗……。やっぱり、この静寂に包まれた杜の空気感がたまらないですね」 チーコが感嘆の声を漏らしながら、さっそく首からカメラを構えてファインダーを覗く。
「ああ。上野戦争の激戦地になったり、幾多の戦火を潜り抜けてきた場所とは思えないほど、今は穏やかな時間が流れているな」 蒼井が隣に並んで呟くと、チーコはうなずきながら境内の一角へと視線を向けた。
「さて、本命はあっちの唐門と金色殿です! 私の新しい単焦点レンズで、あの精巧な木彫りの立体感と金箔の質感、そして透塀の陰影を極限までクリアに切り取ってみせます」 チーコが意気揚々と歩みを進めようとしたそのとき、石畳のわずかな段差に足をとられ、体がふらりと大きく傾いた。
「っと……危ないな」 瞬時に踏み出した蒼井の腕が、チーコの背中をしっかりと受け止める。 至近距離でぶつかった瞬間、ふわりと漂う柔らかな香りと温かな体温が、蒼井の胸に飛び込んできた。
「あ……ご、ごめんなさい、チーフ……!」 見上げたチーコの大きな瞳が、すぐ目の前で揺れている。蒼井は支えた腕をどう動かすべきか迷いながら、ドクンと高鳴る自分の心音に焦りを覚えた。
「い、いや……怪我はなかったか? 境内は石畳が多いから、あまり足元を見ずに夢中になるなよ」 「う、うん……ありがとうございます、チーフ」
耳たぶまで真っ赤に染めて小さく頷くチーコの姿に、蒼井はこれ以上ない動揺を隠せなかった。周囲の参拝客の視線に気づき、慌てて少しだけ距離を取るふたり。しかし、一度縮まった心の距離は、そう簡単には元に戻らなかった。
「……こ、こうなったら、私もしっかり最高の写真を撮って、この緊張をごまかさなきゃ!」 照れ隠しのようにカメラを構え直すチーコの横顔を見つめながら、蒼井はポケットの中でそっと自分の胸元を押さえ、小さく息を吐き出すのだった。
第9話:木漏れ日の洋食ランチと、思わぬ伏兵
上野東照宮の厳かな境内を巡り、精緻な金色殿や唐門の撮影をやり遂げたふたりは、心地よい疲労感を覚えながら参道をあとにした。木々の間から差し込む秋の陽光が、石畳に柔らかい影を落としている。
「ふう……完璧に撮れました……! 唐門の彫刻の立体感も、金箔のテクスチャーも、私の理想通りの画が収められました!」 チーコが満足げにカメラの液晶画面を確認しながら、ぱっと華やかな笑顔を咲かせる。 「お前のその執念には毎度驚かされるが……まあ、納得のいく仕事ができたなら何よりだ」 蒼井も小さく笑みを浮かべ、首から下げたカメラバッグのストラップを軽く整えた。
「で、このあとは当然……お腹ペコペコですよね?」 チーコが上目遣いにキュッと首をかしげる。 「おいおい、また俺の奢り前提かよ」 「当たり前じゃないですか! 東照宮の歴史と美を完全網羅した特別なリサーチなんですから、ご褒美のランチは必須項目です。ほら、近くに明治から続く老舗の洋食屋さんがあるんですから行きましょう!」
蒼井は苦笑いを浮かべつつも、嫌々な様子は見せない。むしろ、彼女と並んで歩けるこの時間が心地よいことを、内心では隠しきれずにいた。
ふたりが足を向けたのは、上野の杜から少し歩いたところにある、レトロで落ち着いた佇まいの老舗洋食レストランだった。 温かみのある木製のテーブル席に向かい合って座ると、すぐに美味しそうな香りを漂わせた名物のビーフシチューと、香ばしいハンバーグステーキが運ばれてきた。
「わあ、美味しそう……! いただきます!」 チーコはフォークを手に、トロトロに煮込まれたビーフシチューを一口運ぶと、「ん〜っ!」と幸せそうに目を細めた。「お肉が口の中でとろけます……! チーフも一口、どうぞ?」
自然な流れで差し出されたスプーンを前に、蒼井は一瞬たじろいだ。だが、窓の外の柔らかな木漏れ日と、チーコの真っ直ぐな瞳に押されて、観念したように素直に口を開ける。濃厚でコクのある味わいが口いっぱいに広がった。
「……確かに、美味いな」 「でしょ? こういう歴史ある街の老舗って、味も格別ですよね」
チーコはグラスの水を一口含み、それから少しだけ落ち着いた声でトロンと蒼井を見つめた。 「……私、このチームで写真を撮るようになって、本当に良かったって思ってます」 不意に落とされたその真剣な言葉に、蒼井は動きを止めた。
「最初は、先輩に無理やり巻き込まれて……って思ってたけど。こうして上野のあちこちを歩いて、家康公の歴史や、戦火を潜り抜けた建築の奇跡に触れて、それが記事になって……。何より、こうしてチーフと一緒に……」
チーコは言葉を濁し、指先でグラスのふちを軽く撫でた。その頬が、店内の温かな照明のせいだけでなく、ほんのりと赤く染まっている。
「……一緒に、色んな景色を見るのが、すごく大切で……私にとって、この時間は何よりもかけがえのないものになってます」
まっすぐに向けられた熱い瞳に、蒼井の胸の奥が激しく揺さぶられた。冷静沈着で通っているはずのチーフプロデューサーは、こういうストレートな言葉に対して、驚くほど無力だった。
「……俺もだ」 気づけば、絞り出すような低い声が口をついて出ていた。
「え……?」 「俺にとっても……お前とこうして歴史の景色を巡る時間は、悪くない……いや、何よりも代えがたい時間だ」
少しだけ照れくさそうに視線を逸らした蒼井の言葉に、チーコは息を呑んだ後、これまでにないほど愛おしそうな、蕩けるような笑みを浮かべた。
その瞬間――。 静かな店内の空気を切り裂くように、蒼井のポケットから鋭い通知音が鳴り響いた。
ロマンチックな雰囲気を容赦なく打ち砕くその電子音に、蒼井が「っ……!」と顔をしかめてスマートフォンを取り出すと、画面には当然のようにあのチャットアプリが開いていた。
『チーフ、上野東照宮の境内における告白めいた甘い空気、バッチリ観測させてもらった。老舗洋食店のビーフシチューに負けない、濃厚な時間だったな』
「……また見やがってあの野郎……!」 蒼井が頭を抱えると、チーコがのぞき込んできた。「あ、オーナーからですか?」
画面にはさらに追い打ちのメッセージが光っている。
『なお、チーフのプライベート視察に対する労いとして、洋食ランチの領収書データ、こちらも当然のごとく全額却下とする。自腹でしっかりと絆を深めるように』
「全くだ……完全に手の平の上だな、俺たちは」 頭を抱える蒼井を見て、チーコはクスッと声を上げて上品に笑った。
「ふふっ、オーナーさん、本当に絶妙なタイミングで邪魔してくれますね。でも……」 チーコはフォークを置き、まっすぐに前を見据えた。
「今日の分のランチ代のお礼は、また次の仕事の最高な成果で返しますからね、チーフ!」
窓の外に広がる上野の夕空を眺めながら、ふたりの距離はもう、ただの先輩と後輩の枠を超えて、確かな未来へとしっかりと結ばれていたのだった。

