第7話:黄金色の紅葉と、世田谷デートへの強引なご招待
公開された第18サイクル「豪徳寺(井伊直孝ゆかり)」の特集ページは、彦根藩主・井伊直孝公と白猫の伝説から、江戸幕府第3代将軍・家光の治世における譜代大名筆頭としての歴史的背景、そして11月の鮮やかな紅葉や無数の招き猫たちが織りなす温かな空間を鮮やかに描き出し、WEBメディア「癒しの場所へ」の読者たちから絶賛の声を浴びていた。
「見てください、チーフ! 豪徳寺編もものすごい大反響です! 『真っ赤な紅葉とたくさんの招き猫のコントラストが可愛すぎる! しかも徳川家光の時代を支えた井伊直孝の歴史がめちゃくちゃ深くて感動した!』って、コメント欄がお祭り状態です!」 オフィスの中心で、まゆみがスマホの画面を嬉しそうに突き出す。その横で近藤も「いやあ、Bチームの井伊家と菩提寺の歴史的ネットワークを紐解いた考証、今回も最高でしたね!」と満面の笑みを浮かべた。
その賑わいを少し離れた席から眺めながら、チーコは手元に置いたライカの一眼レフカメラのマットなボディを指先でなぞっていた。液晶画面には、先ほどから自分で撮影した豪徳寺の荘厳な山門や、招福殿にずらりと並ぶ白い招き猫たちの愛らしい表情、11月の澄んだ秋晴れの空に映える見事な紅葉のカットが、モノトーン&ディープな色彩のシャープなコントラストで何枚も映し出されている。
(……記事の完成度は文句なし。Aチームの丁寧なレポートも、先輩たちの重厚な歴史考証も完璧。……だけど!)
チーコの中のプロカメラマンとしての、そして表現者としてのプライドが、またしてもふつふつと疼き出す。 (豪徳寺の紅葉と招き猫だけじゃもったいないって言ったでしょ! 彦根藩主・井伊直孝公を白猫が導いたあの伝説の緊張感と、11月の黄金色の絨毯を、私のモノトーン&ディープな色彩でまとめてカッコよく切り取りたいのよ! 徳川家光の時代を支えた譜代大名の祈りの舞台を、私のファインダーで最高のアートに昇華できるのに……!)
じっとしていられなくなったチーコは、カチャリとレンズキャップをはめると、一直線にデスクの向こう側に座る蒼井のほうへと歩いていった。
ヴィンテージライクなショートコートの裾をひらりとなびかせ、チーコは蒼井のデスクに両手をついた。またしても至近距離でその顔をのぞき込む。 「――チーフ」 「ん? なんだ、チーコ。まさか次のサイクルの企画書、もう締め切りだとか言うなよ?」 「そうじゃなくて!」
「おまっ、だからその距離感……少しは学習しろよ」 すっかりこのお決まりの距離感に慣れてきた蒼井は、呆れながらもわずかに頬を引きつらせて体を引いた。
「豪徳寺のビジュアルです! 今の記事のカットも悪くはないけれど、私の新しいモノトーン&ディープな色彩表現を通して、井伊直孝の伝説や黄金色の紅葉の美しさを極限まで引き出したら、あの世田谷のロマンがもっと心に刺さる最高の作品になるんです! 悔しくて今夜も絶対眠れません!」 「いや、だから、すでに大反響を呼んでいる公式の豪徳寺特集記事だぞ。今さら何を……」 「ダメです! プロの表現者として、豪徳寺が持つ本当の『歴史のレイヤーと温かな伝説の美しさ』を私の手で余すところなく捉え直さないと気が済まないんです!」
熱っぽくまくし立てるチーコに、蒼井は盛大な溜息をついた。 「お前のその写真に対する底知れない執念は、もう骨身にしみるほど分かった。だがな、もう公式の連載は――」
「公式じゃありません、プライベートです!」 「プライベート?」 「そうです! 休日返上で、私服で、完全に個人の研究としてリサーチに行ってきます! ……あ,でも、歴史ある世田谷の小道や広い境内を一人で歩くのは少し心細いから、チーフ、私服で私のリサーチに付き合ってください!」
「なんだと……?」 「ほら、チーフだって、井伊直孝が描いた譜代大名の防衛思想や菩提寺の役割がどうこの豪徳寺に結ばれているのか、もう一度11月の澄んだ空気を感じながら肌で感じておくべきです! 素晴らしい一日のためのロケハン兼、大事なお散歩なんですから!」
「いや、どう見ても完全にただのデートの誘いだろ、それ……しかも前回と全く同じ流れじゃないか!」 蒼井が鋭くツッコミを入れると、チーコはわざとらしく窓の外へ視線を逸らした。 「聞こえませーん! 明日の日曜日、朝十時に宮の坂駅の改札ですからね! 遅刻したら私の高級ライカをチーフの私物入れに永久封印しますから!」
「おまっ、その脅し文句、いよいよレパートリーに完全定着しやがて……!」
半ば強引に、かつ最高に魅力的な笑顔で迫るチーコを前に、蒼井は降参したように深く椅子にもたれかかった。しかし、その耳たぶが前回よりもさらに真っ赤に染まっているのを、チーコは鋭いファインダー越しのような目で完璧に見逃していなかった。
(よし、今回も完全に私のペース……!)
心の中でガッツポーズをしたチーコは、「じゃ、明日の準備してきまーす!」と軽やかな足取りで自分の席へと戻っていく。 その背中を見送りながら、蒼井は小さく呻き声を漏らし、天井を仰いだ。
「まったく、いつの間に俺はあいつの術中に完全にハマる人生を送るようになったんだか……」
少し離れた席からそのやり取りの一部始終を生温かい目で見守っていた佐久間とやよいは、顔を見合わせてクスッと上品に微笑み合うのだった。
第8話:11月の黄金色の紅葉と、境内を歩くふたりの距離
日曜日、午前十時の東急世田谷線・宮の坂駅の改札口。 約束の時間ぴったりに現れたチーコを見た瞬間、待ち合わせ場所に立っていた蒼井は思わず息を呑んだ。
今日のチーコは、11月の深まりゆく秋の澄んだ青空に美しく映えるキャメルカラーのロングトレンチコートに、上品なダークグリーンのニットと黒のパンツという、動きやすさと大人の洗練が絶妙に同居する装い。首から下げた高級ライカの一眼レフカメラが、今日のデート兼リサーチという目的を引き立て、彼女の活発で凛とした雰囲気を一層際立たせている。
「お待たせしました、チーフ!」 少し小走りで駆け寄ってきたチーコが、パッと華やかな笑みを浮かべる。その眩しさに、蒼井はわずかに視線を逸らしながらも、照れくさそうに口を開けた。
「……あぁ、待ってない。その、なんだ……世田谷の穏やかな街並みや、古寺の雰囲気にすごくよく合ってるな、その格好」 「本当ですか? 井伊直孝の歴史や、招き猫発祥の地である豪徳寺の温かな雰囲気に合わせて、今日は少しクラシカルで秋らしいコーディネートにしてきたんです!」 嬉しそうに目を細めるチーコに、蒼井は「行くぞ」とわざとそっけなく言い残して歩き出し、その後をチーコが弾むような足取りでついていく。
宮の坂駅から閑静な住宅街を抜け、目の前に突如として現れた緑豊かな豪徳寺の立派な山門に足を踏み入れると、11月の心地よい冷たい風が頭上の赤や黄色の紅葉を揺らし、ハラハラと黄金色の絨毯の上に葉を落とした。
「わあ……写真で見ていたけれど、実際にこうして見事な紅葉に包まれた境内に立つと、彦根藩主・井伊直孝公を白猫が導いた伝説の温かさと、木々の間の木漏れ日の美しさが相まって、なんだかすごく心が洗われるみたい……!」 チーコが感嘆の声を漏らしながらさっそくカメラを構え、山門や、招福殿のまわりにずらりと並ぶ無数の白い招福猫児たちの愛らしい表情を丁寧にファインダーに収めていく。
「ああ。徳川家光の時代において譜代大名の筆頭として幕府を支えた井伊家が、この寺を菩提寺として手厚く保護し、政治的・宗教的なネットワークの拠点とした場所……ここは、華やかな大名政治の裏側で江戸の平和を支え続けた、極めて重厚な歴史の聖域なんだな」 蒼井が隣に並んで静かに呟くと、チーコはうなずきながらレンズのピントを微調整した。
「このお寺が秘めている『温かな伝説と凛とした歴史のエネルギー』を、私のモノトーン&ディープな色彩ライティングで完璧に切り取ってみせます!」 チーコが意気揚々と一歩を踏み出そうとしたそのとき、敷き詰められた落ち葉の下のわずかな段差に軽く躓き、バランスを崩してふらりと大きくよろめいた。
「っと……危ないな」 瞬時に踏み出した蒼井の強い腕が、チーコの肩をしっかりと受け止める。 至近距離でぶつかった瞬間、ふわりと漂う柔らかな香りと確かな温もりが、蒼井の胸に飛び込んできた。
「あ……ご、ごめんなさい、チーフ……!」 見上げたチーコの見開かれた瞳が、すぐ目の前で揺れている。蒼井は支えた腕をどう動かすべきか迷いながら、ドクンと高鳴る自分の心音に焦りを覚えた。
「い、いや……怪我はなかったか? 境内は落ち葉ですべりやすいところもあるから、あまり夢中になって足元が見えなくなるなよ」 「うん、ありがとう……ございます、チーフ」
耳たぶまで真っ赤に染めて小さく頷くチーコの姿に、蒼井はこれ以上ない動揺を隠せなかった。11月の澄んだ青空の下、黄金色の紅葉に包まれた豪徳寺の境内で、ふたりの間には甘く静かな空気が満ちていく。慌てて少しだけ距離を取るふたりだったが、一度縮まった心の距離は、そう簡単には元に戻らなかった。
「……こ、こうなったら、私もしっかり最高の写真を撮って、このドキドキをごまかさなきゃ!」 照れ隠しのようにカメラを構え直すチーコの横顔を見つめながら、蒼井はトレンチコートのポケットの中でそっと自分の胸元を押さえ、小さく熱い息を吐き出すのだった。
第9話:宮の坂の隠れ家カフェの温かな焼き菓子と、お決まりのチャット通知
豪徳寺の美しい紅葉のアーチや、招福殿にずらりと並ぶ無数の白い招福猫児たち、そして彦根藩主・井伊直孝公と白猫の伝説が息づく歴史の足跡をレンズに収め尽くしたふたりは、心地よい疲労感と満ち足りた気分に包まれながら、宮の坂駅の近くにある温かな隠れ家カフェへと足を向けた。11月の爽やかで澄んだ秋晴れの光が、大きなガラス窓から明るく心地よく差し込んでいる。
「ふう……完璧に撮れました……! 境内の黄金色の紅葉も、ずらりと並ぶ可愛い招き猫たちも、私の理想通りのモノトーン&ディープな色彩で収まりました!」 チーコが満足げにカメラの液晶画面を確認しながら、パッと華やかな笑顔を咲かせる。 「お前のその写真に対する執念深さは毎度のことながら見事だが……まあ、妥協せずに最高の瞬間を切り取れたなら何よりだ」 蒼井も小さく笑みを浮かべて、首から下げたカメラバッグのストラップを軽く整えた。
「で、このあとは当然……お腹ペコペコですよね?」 チーコが上目遣いにキュッと首をかしげる。 「おいおい、また私の奢り前提かよ。前回の平河天満宮のときと全く同じ台詞だな、お前は」 「当たり前じゃないですか! 豪徳寺のエキゾチックな紅葉巡りと、井伊直孝の伝説を完全網羅した特別なリサーチなんですから、ご褒美のごはん処は必須項目です。ほら、隠れ家カフェ自慢の香ばしい焼き菓子と美味しいコーヒーをいただきましょう!」
蒼井は苦笑いを浮かべつつも、嫌な顔ひとつ見せない。むしろ、彼女と並んで歩けるこの穏やかな時間が心地よいことを、内心ではもうすっかり隠しきれずにいた。
ふたりが腰を下ろしたのは、木の温もりあふれる洗練されたカフェスペースだった。 テーブル席に向かって座ると、すぐに香ばしいコーヒーの芳醇な香りとともに、店内で丁寧に焼き上げられた特製の温かな焼き菓子セットが運ばれてきた。
「わあ、美味しそう……! いただきます!」 チーコはフォークを手に、一口スイーツを運んで、「ん〜っ!」と幸せそうに目を細めた。「コーヒーの深いコクと、焼き菓子の素朴で上品な甘さが、宮の坂の坂道を歩き回った体にすごく染みます……! チーフも一口、どうぞ?」
自然な流れで差し出されたフォークを前に、蒼井は一瞬たじろいだ。だが、目の前の温かな空間と、チーコのまっすぐで温かな瞳に押されて、観念したように素直に口を開ける。優しい甘さが口いっぱいに広がった。
「……確かに、美味いな」 「でしょ? こういう隠れ家的な素敵なカフェって、歴史をたっぷり感じたあとのクールダウンに最高ですよね」
チーコはコーヒーカップを両手で包み込み、それから少しだけ落ち着いた声でトロンと蒼井を見つめた。 世田谷の穏やかな住宅街から少し離れたこの心地よい空間で、ふたりの間に穏やかな沈黙が流れる。
「……私、このチームで写真を撮るようになって、本当に良かったって思ってます」 不意に落としたその真剣な言葉に、蒼井は動きを止めた。
ライバルとして、あるいは先輩と後輩として、色んな歴史の景色を巡ってきたこれまでの日々が脳裏をよぎる。
「最初は、先輩に巻き込まれて……って思ってたけど。こうして豪徳寺の綺麗な紅葉を感じて、井伊直孝が守った譜代大名の歴史の重みも知って……何より、こうしてチーフと一緒に……」
チーコは言葉を濁し、指先でカップのふちを軽く撫えた。その頬が、11月の爽やかな陽気のせいだけでなく、ほんのりと赤く染まっている。
「……一緒に、色んな景色を見るのが、すごく大切で……私にとって、この時間は何よりもかけがえのないものになってます」
まっすぐに向けられた熱い瞳に、蒼井の胸の奥が激しく揺さぶられた。冷静沈着で通っているはずのチーフプロデューサーは、こういうストレートな言葉に対して、驚くほど無力だった。
「……俺もだ」 気づけば、絞り出すような低い声が口をついて出ていた。
「え……?」 「俺にとっても……お前とこうして世田谷を巡る時間は、悪くない……いや、何よりも代えがたい時間だ」
少しだけ照れくさそうに視線を逸らした蒼井の言葉に、チーコは息を呑んだ後、これまでにないほど愛おしそうな、蕩けるような笑みを浮かべてみせた。
その瞬間――。 穏やかなカフェの空気を切り裂くように、蒼井のポケットから鋭い通知音が鳴り響いた。
ロマンチックな雰囲気を容赦なく打ち砕くその電子音に、蒼井が「っ……!」と顔をしかめてスマートフォンを取り出すと、画面には当然のようにあのチャットアプリが開いていた。
『チーフ、豪徳寺の境内から隠れ家カフェにかけての甘い空気、バッチリ観測させてもらった。11月の黄金色の紅葉の美しさも吹き飛ばすような、眩しい時間だったな』
オーナーからの容赦ないメッセージに、蒼井は頭を抱えた。「また見やがてあの野郎……!」 チーコがのぞき込んできた。「あ、オーナーからですか?」
画面にはさらに追い打ちのメッセージが光っている。
『なお、チーフのプライベート視察に対する労いとして、カフェの領収書データ、こちらも当然のごとく全額却下とする。自腹でしっかりと絆を深めるように』
「全くだ……完全に手の平の上だな、俺たちは」 頭を抱える蒼井を見て、チーコはクスッと声を上げて上品に笑った。
「ふふっ、オーナーさん、本当に絶妙なタイミングで邪魔してくれますね。でも……」 チーコはカップを置き、まっすぐに前を見据えた。
「今日の分のカフェ代のお礼は、また次のサイクルでの最高の成果で返しますからね、チーフ!」
