第7話:夕暮れの誘惑と、チーフの陥落
「……ねえ、チーフ」
チーコはデスクに手をつき、身を乗り出すようにして蒼井の顔を覗き込んだ。
「ん? どうしたチーコ」 蒼井がタブレットから視線を上げると、至近距離にある大きな瞳と目が合った。チーコは満面の笑みを浮かべ、画面に表示された五條天神社の写真を指さす。
「この谷間の木漏れ日、佐久間くんの写真もすごく綺麗だけど……夕方四時前後の西日が差し込む瞬間、もっと劇的な光が出ると思いません?」 「まあ、すり鉢状の地形だからな。西日が斜めに差し込む時間帯は、陰影のコントラストが一段と深くなるはずだが」 「ですよね! 私、ずっと試したかった新しい単焦点レンズがあるんです。夕暮れの五條天神社で、その光をどうしても切り取ってみたくて!」
熱弁を振るうチーコに、蒼井はチーフプロデューサーの顔で頷いた。
「いい着眼点だ。次の企画のビジュアル資料として、ロケハンがてら撮影してきてくれるか?」 「違いますよ、チーフ」
チーコはふくれ面を作り、人差し指をちちっと左右に振った。
「『ロケハン』じゃなくて、『プライベート』です。仕事用の重い機材じゃなくて、お互い私服で、のんびり歩きながら撮りたいんです。……つまり、今度の土曜日、私とデートしてください!」
「……は?」
オフィスの時が止まった。
デスクで資料を整理していたやよいが「あら」と目を丸くし、佐久間は吹き出しそうになるのを必死に堪えている。近藤とまゆみは口をぽかんと開けて固まっていた。
「デ、デートって……お前な、何を言い出すんだ」 蒼井の冷静な表情が珍しく揺らぎ、耳元がうっすらと赤く染まる。
「だって、完成した原稿を読んだらどうしても行きたくなっちゃったんだもん! 参拝して、写真を撮って、そのあとは不忍池のあたりを散歩して、美味しい甘味を食べるんです! チーフとふたりで!」 「おいチーコ、俺は週末に溜まった企画書のチェックが……」 「ダメです! チーフはいつもオフィスに籠もりすぎ! たまには外の空気を吸って、私の撮影に付き合ってください。ね、蒼井先輩?」
大学時代の「先輩」という呼び方を持ち出され、さらに上目遣いで迫られた蒼井は、完全に逃げ場を失った。
周囲の視線が集まる中、蒼井は観念したように長いため息をつき、頭をかいた。
「……わかった。ただし、あくまでプライベートな散策の付き添いだからな」 「やったあ! 約束ですよ!」
チーコは花が咲いたような笑顔で飛び跳ね、拳を小さく握りしめた。
「じゃあ土曜日の午後三時、京成上野駅の改札前で待ち合わせね! チーフ、遅刻したら罰ゲームですから!」
鼻歌交じりに自分のデスクへ戻っていくチーコの背中を見送りながら、蒼井は手元のタブレットで顔を隠し、小さく呻いた。
「……まったく、あいつのペースには敵わないな」
隣からやよいがクスクスと忍び笑いを漏らし、佐久間が「チーフ、土曜日晴れるといいですね」とからかい混じりに声をかける。
不器用なチーフと自由奔放な天才カメラマン。 週末の上野の杜に、いつもと少し違う特別な風が吹こうとしていた。
第8話:傾く陽光と、ファインダー越しの距離
土曜日の午後三時。京成上野駅の改札を出た蒼井は、約束の五分前に待ち合わせ場所へと着いた。
仕事用のスーツやジャケットではなく、ネイビーの薄手スウェットに落ち着いたチノパンという休日仕様の装い。手ぶらのポケットに手を入れ、行き交う人々を眺めていると、背後からトンと肩を叩かれた。
「蒼井先輩! お待たせしました!」
振り返った蒼井は、思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、いつもの機能性重視のワークスタイルとはまるで違うチーコだった。柔らかなアイボリーのサマーニットに、風にふわりと揺れるプリーツスカート。肩からは革ストラップで愛用のコンパクトカメラが提げられている。
「……チーコ、その格好」 「えへへ、変ですか? 今日は完全プライベートですから、気合入れておめかししてきました!」 「いや、変じゃない。……よく似合ってる」 「ほんとですか? やった!」
屈託なく笑うチーコに、蒼井は照れ隠しのように視線を逸らし、咳払いをひとつした。
「ほら、行くぞ。四時の光に間に合わなくなる」 「はーい!」
ふたり並んで初夏の上野恩賜公園へと坂を上がっていく。休日で賑わうメイン通りを抜け、五條天神社の鳥居前へたどり着くと、チーコは首のカメラを構えてファインダーを覗いた。
「わあ……やっぱり。石段の陰と、木々の隙間から落ちる光の粒が全然違う!」
鳥居を一礼してくぐり、石段を降りていく。 木々に囲まれたすり鉢状の谷間は、昼下がりの喧騒が嘘のように穏やかな静寂に包まれていた。傾き始めた西日が、木々の葉を黄金色に透かし、拝殿の屋根に長い影を落としている。
手水舎で身を清め、ふたり並んで拝殿の前へ進む。 お賽銭を入れ、二礼二拍手一礼。
静かに目を閉じるチーコの横顔を、蒼井は盗み見るように視界に収めた。長いまつ毛に夕方の光が淡く反射している。仕事の現場で見せる鋭い眼差しとは違う、どこかあどけない表情に胸が小さく跳ねた。
参拝を終えると、チーコは境内を小走りで移動し、様々な角度からシャッターを切り始めた。
「蒼井先輩、ちょっとそこ立っててください!」 「え? 俺か?」 「そう! 鳥居の横、ちょうど木漏れ日が差してるところ!」
カシャリ、と小気味よいシャッター音が響く。
「……仕事の素材じゃないんだぞ」 「いいんです、私のプライベートアルバム用ですから。ほら、見てください先輩。すっごくいい光!」
駆け寄ってきたチーコが、カメラの背面液晶を蒼井の目の前に差し出した。 覗き込む蒼井の肩に、チーコの肩がふと触れ合う。ふわりと漂うシャンプーの甘い香りに、蒼井の心拍数が一気に上がった。
画面に映っていたのは、夕暮れの柔らかな光に包まれた境内と、不器用に佇む自分の姿だった。
「……チーコが撮ると、どんな場所も劇的なワンシーンになるな」 「それは、被写体がいいからですよ」
チーコが悪戯っぽく微笑み、液晶画面から顔を上げて蒼井をまっすぐ見つめた。至近距離で見つめ返され、蒼井は言葉に詰まる。
静かな境内に、夕暮れを告げる風がさやさやと吹き抜けた。
「……さて、境内の光も満喫したし、次は約束の甘味処だな」 「賛成! 先輩、お腹ぺこぺこです!」
誤魔化すように歩き出す蒼井の半歩後ろを、チーコは嬉しそうにスカートを揺らしながらついていった。
第9話:茜色の余韻と、経費の壁
五條天神社の石段を上がり、ふたりは木々の間を抜けて不忍池のほとりへと向かった。
水面には傾きかけた夕日が反射し、一面が淡い茜色にきらめいている。池沿いの遊歩道を並んで歩きながら、チーコは足取りも軽やかにカメラを構えていた。
「風が気持ちいいですね、先輩」 「そうだな。オフィスに籠もっていると、この時間帯の光の変化には気づけない」 「でしょ? 連れ出して正解でした!」
上野公園の南側、風情ある佇まいの老舗甘味処『韻松亭』の茶房へ滑り込む。夕暮れ時の落ち着いた店内で、ふたりは向かい合って席についた。
運ばれてきたのは、涼やかなガラスの器に盛られた特製のくずきりと、白玉あんみつ。
「わあ、美味しそう……! いただきます!」 チーコが嬉しそうにスプーンを口に運び、目を細める。 「ん〜! 黒蜜がすっごく濃厚! 先輩、これ一口食べてみてください、絶対好きですよ」
チーコが自分のスプーンに白玉とあんこを乗せ、蒼井の口元へ差し出した。
「えっ……い、いや、俺は自分のくずきりがあるから」 「いいからいいから! はい、あーん」
ぐいぐいと迫るチーコに、周囲の客の視線を感じた蒼井は、観念して口を開けた。上品な甘さと香ばしさが口いっぱいに広がる。
「……うん、美味いな」 「ふふ、でしょ? 先輩って甘いもの食べるとすぐ表情が緩むからわかりやすいです」
楽しそうに笑うチーコを見つめながら、蒼井は喉の奥が熱くなるのを覚えた。
茶房を出たあとは、上野駅周辺の商業施設へ立ち寄り、ウィンドウショッピングを楽しんだ。カメラアクセサリーのショップで最新のストラップを眺めたり、セレクトショップで秋物の羽織ものを鏡の前で合わせ合ったりと、仕事中には見られない他愛のない会話が続く。
「このジャケット、蒼井先輩にすごく似合いそう」 「そうか? 自分じゃ選ばない色だな」 「たまには冒険してくださいよ。今度これ着て取材行きましょ」
あっという間に時間は過ぎ、気づけば空は深い藍色に染まっていた。
夜風が心地よいJR上野駅の改札前。 ふたりは自然と足を止めた。
「今日は……楽しかったです。付き合ってくれてありがとうございました、先輩」 チーコが少しだけ上目遣いで、名残惜しそうに蒼井を見つめる。
「俺も、いい息抜きになった。ありがとな、チーコ」 「……また、こういうプライベートの散策、誘ってもいいですか?」 「……まあ、たまにならな」
蒼井が照れくさそうに頷くと、チーコは満面の笑みを咲かせた。
「約束ですからね! じゃあ、また月曜日にオフィスで!」
チーコが小さく手を振りながら改札の中へと消えていく。その背中を見送った蒼井は、ふうっと長く息を吐き出し、胸に手を当てた。普段の撮影現場よりも、確実に心拍数が上がっていた。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンが鋭く振動した。
画面を見ると、社内チャットアプリから通知が入っている。 送り主は、あのバックオフィスのオーナーだった。
『チーフ、プライベート視察ご苦労だった。不忍池周辺の夕景と散策ルート、実に良いエンゲージメントが見込めそうだな』
「……どこから見てたんだ」 蒼井が眉をひそめた瞬間、続けてメッセージが届く。
『なお、先ほど領収書データとして自動送信されてきた「韻松亭・甘味セット2名分」の経費申請だが、完全プライベートにつき当然のごとく全額却下とする。自腹で楽しむように』
「っ……!」
スマートフォンの画面を前に、蒼井は思わず天を仰いだ。
夜の上野駅の喧騒の中、心地よい敗北感と甘い余韻が、いつまでも静かに胸に残っていた。
