五條天神社編|Aグループ 近藤君とまゆみさん

五條天神社、近藤君とまゆみさん AM長編(フィクション)
五條天神社、近藤君とまゆみさん

第1話:初陣の朝と、谷間の杜へ

カタカタと軽快なキーボードの打鍵音が響くオフィスに、ピロン、と乾いたチャットの通知音が鳴り響いた。

壁際の大型モニターに映し出されたのは、顔出しのないアイコンからのダイレクトメッセージだ。

『新規WEB連載プロジェクト「江戸・東京 祈りの杜を歩く」、本日より始動する。記念すべき第1弾の舞台は、上野恩賜公園に鎮座する医薬の祖神・五條天神社。まずは基本のキだ。新人の新鮮な目線で、境内の空気感を余すところなく切り取ってこい。突撃隊長、頼んだぞ』

送り主は、このWEBメディアのオーナー。姿は見せないが、指示はいつも的確で、どこか悪戯っぽい。

「……き、きた!」

デスクから勢いよく立ち上がったのは、今年の新卒でカメラマン兼アシスタントディレクターの近藤だった。黒髪をきっちり整え、手にはすでにカメラバッグのストラップが固く握られている。やる気と緊張がそのまま全身から湯気のように立ち上っていた。

「近藤くん、落ち着いて。肩に力が入りすぎだよ」

隣のデスクからクスッと笑い声を上げたのは、同期のまゆみだ。取材ノートとペンを丁寧にトートバッグへ収めながら、穏やかな笑顔を浮かべている。

「だってまゆみさん、いよいよ俺たちの初取材だよ? 失敗できないだろ」 「大丈夫。準備は昨日ふたりでしっかり確認したじゃない」

そんな初々しいふたりのやり取りを、少し離れた席から見守っていたのは中堅チームのやよいだった。ホットコーヒーのマグカップを手に、ふわりと微笑んでいる。

「ふふ、懐かしいわね佐久間くん。私たちも最初の取材のときはあんな風にガチガチだったっけ」 「そうでしたね。やよいさん、緊張のあまり取材先の最寄り駅を乗り過ごしましたから」 「ちょっと、昔の話は蒸し返さないでよ」

佐久間が苦笑いしながらパソコンの画面から視線を上げ、近藤を手招きした。

「近藤、機材の予備バッテリーとSDカードは持ったか? 五條天神社は公園のすり鉢状の谷間にあるから、時間帯によって木漏れ日の明暗差が大きい。露出の調整、気をつけてな」 「はい! 佐久間先輩、ありがとうございます!」

頼れる先輩からの実践的なアドバイスに、近藤は手帳へ素早くメモを走らせる。

オフィスの奥、ガラス張りのミーティングスペースからは、チーフプロデューサーの蒼井が姿を現した。長身にシンプルなシャツを着こなし、手元にはタブレット端末を抱えている。

「近藤、まゆみ。最初から完璧な記事を書こうとしなくていい。読者が『自分もその場を歩いている』と感じられるような、素直な感動や気づきを拾ってきてくれ」 「はい、チーフ!」

チーフの落ち着いた声に、まゆみは背筋を伸ばして元気に返事をした。

その蒼井の背後から、ひょっこりと顔を覗かせたのは専属カメラマンのチーコだ。首にかけた愛用のコンパクトカメラを指先で弄びながら、いたずらっぽくウインクする。

「まゆみちゃん、近藤くん。五條天神社はね、鳥居をくぐって石段を降りた瞬間にガラッと空気が変わるの。その『空気の境目』、しっかり肌で感じてきてね!」 「はい、チーコさん! 空気の境目ですね、しっかり意識してきます!」

チーム全員からの温かい送り出しを受け、ふたりはオフィスの扉へ向かった。

エレベーターホールへ出ると、近藤がふうっと長く息を吐き出す。

「……ふう。やっぱり、めちゃくちゃ緊張するな」 「ふふ、近藤くんの手、さっきからバッグの取っ手を握りしめすぎて真っ白だよ」 「えっ、嘘だろ」

慌てて手元を見る近藤のおかしな仕草に、まゆみは小さく吹き出した。

「行こう、近藤くん。ふたりの最初の記事、いいものにしようね」 「……うん。行こう、まゆみさん!」

初夏の爽やかな風が吹き抜けるオフィス街を抜け、ふたりは上野の杜を目指して歩き出した。

第2話:木漏れ日の谷と、ふたつの祈り

JR上野駅の公園口を出て、緑豊かな木々を抜けていく。平日の午前中とはいえ、上野恩賜公園は散策を楽しむ人々で賑わっていた。

「確か、この坂を下りたあたりのはずだけど……あ、あった!」

まゆみが指さした先、木々の切れ間に「五條天神社」と刻まれた社号標と、落ち着いた佇まいの石鳥居が見えた。

「行こう、近藤くん」 「うん。まずは一礼、だよね」

ふたりは鳥居の手前で立ち止まり、浅く一礼して敷地へと足を踏み入れた。

緩やかな石段を一歩ずつ降りていくにつれ、背後で響いていた公園の喧騒がすっと遠のいていく。頭上を覆う青葉の隙間から柔らかな光が差し込み、ひんやりとした清涼な空気が肌を撫でた。

「……すごい。チーコさんが言ってたの、これだね」 「ああ。『空気の境目』って、本当にあったんだな」

近藤は息を呑みながら、首から提げた一眼レフカメラを構えた。すり鉢状の谷間に抱かれた境内は、まるで都心の真ん中であることを忘れさせるような深い静寂に包まれている。

石段を降りきったところにある手水舎へ向かう。 近藤がカメラを構え、まゆみが柄杓を手に取った。

「右手で柄杓を持って水を汲んで、左手を清めて……次は持ち替えて右手を清める。それから左の掌に水を受けて口をすすぐ……」 「よし、その一連の所作、すごく綺麗に撮れたよ。読者にも作法がわかりやすいアングルになったと思う」 「よかった。手水舎の水、すごく冷たくて気持ちいいよ。近藤くんも清めておいで?」 「うん、そうする」

身を清めたふたりは、正面に佇む木造の拝殿へと歩みを進めた。 派手な装飾はなくとも、年月を重ねた木の温もりと凛とした気品が漂っている。

お賽銭を静かに入れ、二礼二拍手一礼。

まゆみは胸の前で両手を合わせ、長く目を閉じていた。 隣で先に参拝を終えた近藤が、そっと声をかける。

「ずいぶん熱心にお願いしてたね。何をお祈りしたの?」 「えへへ、内緒にしようと思ったけど……『WEBチームの全員が、大きな病気も怪我もなく健康で過ごせますように』ってお願いしたの」 「チームの健康?」 「うん。五條天神社のご祭神って、大己貴命と少彦名命でしょ? 菅原道真公もお祀りされているけど、根本は日本神話の『医薬と健康の神様』なんだよね。取材の下調べをしていて、まずはみんなの無病息災をお願いしなきゃって思って」

まゆみの優しい言葉に、近藤は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

「そっか……まゆみさんらしいな。俺なんて、『今日の取材がうまく撮れますように』って自分のことばかり祈っちゃったよ」 「ふふ、それも大事なお願いだよ」

拝殿の前を少し離れ、近藤はファインダーを覗き込みながら何枚もシャッターを切った。木漏れ日を浴びる社殿の屋根、静かに揺れる木々。

「近藤くん、日陰と日向で明るさが全然違うね。佐久間先輩が言ってた露出の話、大丈夫?」 「うん、ちょっと設定を変えながら試してる。……あっ」

夢中で後ろに下がろうとした近藤の足が、敷石の段差に引っかかりそうになる。

「危ない!」

まゆみがとっさに近藤の腕を掴んだ。 ぐっと引き戻され、近藤は間一髪で体勢を立て直す。

「だ、大丈夫? 怪我はない?」 「あ……うん。ごめん、ファインダーに集中しすぎて足元見てなかった。ありがとう、まゆみさん」

掴まれた腕の感触に、近藤の頬が一気に熱くなる。 まゆみも自分の手の位置に気づいたのか、慌ててぱっと手を離し、少し赤くなって俯いた。

「も、もう! カメラに夢中になるのはいいけど、気をつけてよ。健康の神様の前で転んで怪我したら、神様も苦笑いしちゃうよ」 「う、うん。気をつけます……」

照れ隠しのように咳払いをひとつした近藤は、気を取り直して取材ノートを開くまゆみの横顔を見つめた。

「……まゆみさん、次はお隣の花園稲荷神社へ抜ける参道と、授与所のほうを見てみようか」 「うん、行こう!」

ぎこちない空気を吹き飛ばすように笑い合いながら、ふたりは木漏れ日揺れる境内をさらに奥へと歩き進めた。

第3話:あんみつの甘みと、モニター越しの視線

「ただいま戻りました!」

オフィスの重い扉を開けると、近藤の少し上ずった声がフロアに響いた。手にはカメラバッグのほかに、上野駅前で買ってきた紙袋が大事そうに提げられている。

「お疲れ様、ふたりとも! 初取材、どうだった?」

デスクから真っ先に顔を上げたのはやよいだった。優しく微笑む先輩の姿に、まゆみはほっとしたように息を吐き出す。

「お疲れ様です、やよいさん。すごく静かで素敵な神社でした! 石段を降りると公園の音がすっと消えて、別世界みたいで……」 「そうか、無事に撮れたみたいだな」

佐久間も作業中の手を止め、ふたりの席へ歩み寄ってきた。近藤はすぐさまパソコンを立ち上げ、カメラから撮影データを吸い上げる。

「佐久間先輩、アドバイスいただいた露出の調整、試してみました。木漏れ日の明暗差が大きくて難しかったですけど……」 「どれどれ……うん、手水舎の水の透明感も出てるし、構図の基本はバッチリ押さえられてるな。いい筋してるぞ、近藤」 「本当ですか! ありがとうございます!」

頼れる先輩からの合格点に、近藤の表情が一気にほころんだ。

「あ、そうだ。これ、帰りに買ってきたんです。『みはし』のあんみつです。みなさんでどうぞ!」

まゆみが紙袋から人数分のカップを取り出し、オフィスの休憩スペースのテーブルに並べ始める。黒蜜の甘い香りがふわっと広がり、奥のミーティングルームから蒼井とチーコも引き寄せられるように出てきた。

「わあ、みはしのあんみつ! まゆみちゃん、気が利く〜!」

チーコが目を輝かせながらスプーンを手に取る。蒼井も穏やかな笑みを浮かべ、近藤のまとめた取材ノートに目を通した。

「うん、大己貴命と少彦名命という医薬の神様としての背景、手水の作法、境内の空気感が初々しい視点でよくまとまっている。読者が最初に読む導入記事として、とてもいい仕上がりになりそうだ」 「ありがとうございます、チーフ!」

褒められて誇らしげな近藤の横で、まゆみも嬉しそうに胸をなでおろした。全員でテーブルを囲み、冷たいあんみつを口に運ぶ。あんこの上品な甘さと求肥のもちもちした食感に、取材の緊張が一気にほどけていく。

「近藤くん、カメラに夢中になりすぎて境内の段差で転びそうになったんですよ」 「ちょっ、まゆみさん、それは言わなくていいだろ……!」 「あはは! わかる、ファインダー越しだと距離感狂うよね〜」

チーコが笑い、オフィスは温かい笑い声に包まれた。

そのとき、ピロン、とモニターから軽快な通知音が鳴った。

全員の視線が壁際の大型ディスプレイへと向かう。表示されたのは、バックオフィスのオーナーからのチャットメッセージだった。

『Aチーム、初取材ご苦労だった。提出された写真と原稿ドラフトを確認した』

近藤とまゆみが思わず背筋を伸ばし、ゴクリと唾を飲み込む。

『境内の静けさと緑の美しさは実によく伝わってくる。だが近藤、拝殿の写真の微妙な傾きに、初陣のガチガチな緊張感がそのまま写り込んでいるぞ。まあ、新人らしくて悪くはないがな。そしてまゆみ、あんみつの差し入れは実にお見事。黒蜜の甘さが疲れた脳によく沁みた。合格点だ』

「う……写真の傾き、見抜かれてる……」

頭を抱える近藤の姿に、やよいと佐久間が顔を見合わせてクスッと笑った。

『さて、Aチームの初陣によって、五條天神社の爽やかな導入記事はできた。だが、このWEBメディアの真骨頂はここからだ。歴史の核心と、神職の方々の声……さらに深い記事へと昇華させる必要があるな』

メッセージの行間から、次なる一手への合図が漂う。

「……佐久間、やよい。出番だな」

蒼井がふたりを見やり、静かに頷いた。

タイトルとURLをコピーしました