第一部:補足取材ストーリー
――水脈の記憶と、三ツ鳥居が結ぶ東西――
四月中旬の夕暮れ、隅田川の水面は西日を受けて鈍い金色の鱗のように波打っていた。
言問橋の東詰、隅田公園のベンチで近藤とまゆみを見送ったあと、佐久間学はカーキ色のジャケットのポケットに両手を差し入れ、川向こうの浅草の街並みを静かに見つめていた。手元には、後輩二人が残していった取材ノートの控え。そこには、三ツ鳥居の構図スケッチや撫で牛の滑らかな質感、そしてスカイツリーとの対比について、若々しい熱量でびっしりと書き込まれていた。
「ふふ、近藤君たち、すっかり取材者としての顔つきになってきたわね」
背後から、春風に乗って柔らかな声が届いた。 淡いサックスブルーのロングシャツにベージュのワイドパンツを合わせたやよいが、丸眼鏡を指先で押し上げながら、佐久間の隣のベンチに腰を下ろした。手には、テイクアウト用の紙コップに入った温かいほうじ茶ラテが二つ。
「はい、佐久間さんの分。夕方になって少し川風が冷たくなってきたでしょ」
「……ありがとうございます、やよいさん。あいつらの取材、どうでしたか」
佐久間は温かいカップを受け取り、一口喉を潤してから問いかけた。
「現場の空気感や人の祈りの温もりを拾い上げる感覚は、もう教えることがないくらい素直で素晴らしいわ。だからこそ――」
やよいはカップの両手を包み込みながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「――歴史オタクな先輩プロデューサーとしては、まだ語り尽くせていない『土地の構造』を補足しておきたくてウズウズしてるんじゃない?」
佐久間は微かに苦笑し、ショルダーバッグから折りたたまれた古地図のコピーを取り出した。
「お見通しですね。……近藤たちのメモにもある通り、牛嶋神社は慈覚大師円仁の開山で、本所の総鎮守として親しまれてきました。ですが、現在の隅田公園内に遷座したのは昭和七年(1932年)のことです。元々はここから少し北、須崎町――今の東駒形から向島にかけての入江にありました」
佐久間は古地図の等高線と川筋を指先でなぞりながら、静かに言葉を紡ぐ。
「あの『三ツ鳥居』は、本来は三輪山の大神神社や秩父の三峯神社に見られるような、山岳信仰・神奈備(かんなび)信仰にルーツを持つ形態です。それがなぜ、この低地の湿地帯に祀られたのか。それは古代、暴れ川であった利根川・荒川・隅田川の水脈を鎮めるための『結界』として機能していたからに他なりません。川の氾濫と疫病という、当時の人々の生命を脅かす二大脅威を封じ込めるため、出雲系の須佐之男命と強力な三輪鳥居の結界構造がこの地に持ち込まれたんです」
「なるほどね……」
やよいは感心したように頷き、佐久間の横顔を見つめた。
「後輩たちが感じた『街を包み込むような温かさ』は、何百年もこの暴れる水脈から下町を守り続けてきた、強固な祈りの結界があったからこそなんだね」
「ええ。近藤とまゆみの等身大のレポートに、この治水と信仰のレイヤーを重ねることで、記事に歴史の厚みが生まれます。……よし、この補足データもオフィスに戻ったら共有しましょう」
立ち上がろうとする佐久間を見上げ、やよいはふっと楽しそうに目を細めた。
第二部:完全プライベートストーリー
――言問通りの甘い寄り道と、撫で牛の知恵――

「はい、お仕事のお話はここまで!」
やよいはすっと立ち上がると、佐久間のジャケットの袖口をきゅっと掴んで引き留めた。
「え……やよいさん? まだ東武線の高架沿いから見た旧境内の位置関係を確認したいんですが」
「却下です。もう十七時半。せっかく春の向島に来たのに、古地図とにらめっこだけで帰るなんて風流の欠片もないじゃない」
「風流って……僕は別に観光に来たわけじゃ……」
「いいから、お姉さんについてきなさい」
やよいは佐久間の反論を笑顔で受け流し、軽やかな足取りで言問通り方面へと歩き出した。逆らいきれずに半歩遅れてついていく佐久間を、夕暮れの街灯が柔らかく照らし出す。
向島の風情ある路地を抜け、二人がたどり着いたのは、言問橋のたもとに静かに佇む名物甘味処の店先だった。
小上がりの席に落ち着くと、運ばれてきたのは上品な三色の団子――小豆餡、白餡、そして黄身餡に包まれた、名物の「言問団子」。
「ほら、佐久間さん。一日中頭をフル回転させてたんだから、糖分補給しなきゃ」
やよいはお茶を淹れ直し、佐久間の前に皿を差し出した。
「……いただきます。確かに、頭を使いすぎて少し糖分が欲しかったのは事実ですが」
佐久間が真面目な顔で黄身餡の団子を口に運ぶと、ほんのりとした上品な甘さが口いっぱいに広がった。無意識のうちに眉間の力がふっと緩むのを、目の前のやよいは見逃さない。
「ふふ、美味しいでしょ? 佐久間さんって放っておくと、ご飯食べるのも忘れて資料読み耽っちゃうんだから。さっき牛嶋神社で撫で牛さん見たとき、私の頭の中に真っ先に浮かんだのは佐久間さんの顔だったよ」
「……どういう意味ですか」
「『佐久間さんは頭を使いすぎていつか知恵熱出すから、撫で牛の頭を念入りに撫でてもらわなきゃ』って」
やよいは悪戯っぽく笑いながら、自分の温かいお茶を一口すすった。
「佐久間さんは、いつも誰よりも周りを見て、確かな事実でみんなの足元を支えてくれる。近藤君たちも、佐久間さんが後ろにいてくれるから安心して前に進めるの。それはすごく頼もしいし、尊敬してる。……でもね」
やよいは丸眼鏡を外し、少しだけ身を乗り出して佐久間の瞳をまっすぐに見つめた。眼鏡を外した彼女の瞳は、普段の理知的な印象よりもずっと柔らかく、艶やかだった。
「たまには、背負ってる荷物を全部下ろして、ただの『佐久間学』として甘えてくれてもいいんだよ? 私、これでも佐久間さんより二つ年上なんだから」
「……っ」
不意に距離を詰められ、佐久間は喉を鳴らして視線を泳がせた。手元のお茶を慌てて口に含むが、熱さでむせそうになり、さらに耳の先まで赤く染まっていく。
「……やよいさんは、いつもそうやって急に距離を詰めてきますよね」
「あら、嫌だった?」
「……嫌だとは、言ってません」
佐久間が視線を逸らしながら小さく呟くと、やよいは満足そうに「ならよろしい」と微笑み、再び眼鏡をかけ直した。
店を出ると、外はすっかり群青色の夜に包まれていた。 隅田川の向こうにそびえるスカイツリーが、春限定の淡い桜色のライティングを纏って夜空に輝いている。川面を渡る夜風が、二人の間を心地よく通り抜けていった。
「綺麗だね、佐久間さん」
「……ええ、そうですね」
並んで歩く二人の影が、街灯の光に引かれて長く伸びる。 確かな歴史を紡ぐ手と、その背中を柔らかく包み込む手。春の夜の向島で、二人の距離はまた少しだけ、自然に重なり合っていた。

