豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺)参拝ストーリー

豪徳寺、近藤君とまゆみさん 長編(フィクション)
豪徳寺、近藤君とまゆみさん

十一月初旬の世田谷は、抜けるような秋晴れの高い青空が広がり、からりと澄んだ心地よい風が、紅葉に染まる木々の葉をサヤサヤと優しく鳴らしながら通り抜けていた。

世田谷八幡宮の力強い土俵と七五三の家族連れの笑顔を取材した二人は、世田谷城址の緑を左手に見ながら、閑静な住宅街の小道を東へ歩いた。わずか数分の散策でたどり着いたのは、鬱蒼とした松並木と深い木立ちに包まれた「大谿山 豪徳寺(ごうとくじ)」の堂々たる総門だった。

「近藤君、見て! 門前の松並木の向こうに、鮮やかな赤や黄色の紅葉が広がってる!」

まゆみは淡いキャメル色のニットカーディガンの裾を翻し、カメラバッグのストラップを肩に掛け直して指差した。下馬エリアの三社寺から世田谷八幡宮へと巡ってきたことで、現場で風景と光を捉える所作にはすっかり余裕と自信が満ちている。

「豪徳寺は曹洞宗の古刹で、彦根藩主・井伊家の江戸における菩提寺なんだ。寛永十年(1633年)、井伊直孝公がこの寺を再興して以来の格式を誇る場所だよ。そして何より、世界中で親しまれている『招き猫』の発祥の地として知られている」

近藤正二は一眼レフのレンズフードを整えながら、手元の取材バインダーをめくった。これまでの取材で培ってきた歴史の立体的な把握が、彼の言葉にしっかりとした厚みを与えている。

総門をくぐり、見事に掃き清められた石畳を進むと、二人の目の前に現れたのは、息を呑むような秋の絶景だった。 平成十八年に建立された総檜造りの木造「三重塔」が、真っ青な秋空へ向かって端正な屋根を重ねている。その周囲を取り囲むモミジやカエデの葉先は、燃えるような朱色や眩しい黄金色に美しく染まり、重厚な仏殿や本堂の木肌に見事なコントラストを描き出していた。

「……すごい。東京の世田谷に、こんなに雄大で色彩豊かなお寺があるなんて」

まゆみが感嘆の声を漏らし、近藤も広角レンズを覗き込んで素早くアングルを決めた。

「三重塔の各層の組物を見てごらん。十二支の動物たちの彫刻に混じって、実は『招き猫』の姿が隠されているんだよ。探してみよう」

「あ、本当だ! 塔の梁のところに、ちょこんと右手を上げた白い猫がいる! 可愛い〜!」

カシャ、と乾いたシャッター音が秋の静けさに心地よく響く。

二人は本堂の前へ進み、ご本尊の釈迦如来坐像に静かに手を合わせた。世田谷線沿線巡り全六カ所の旅が無事に後半へ入ったことへの感謝と、残る取材への決意を心の中で唱える。

参拝を終えた二人は、いよいよ境内の一角にある「招福殿」へと向かった。 木立の小道を抜けた先、奉納所の光景が視界に飛び込んできた瞬間、まゆみは思わず足を止め、両手で口元を押さえて目を見張った。

「……っ! 近藤君、これ……噂には聞いていたけど、本当にすごい迫力!」

二人の前に広がっていたのは、奉納所の棚一面を埋め尽くす、大小数千体もの真っ白な「招福猫児(まねぎねこ)」の群れだった。 手のひらに乗る極小サイズから、両手で抱えるような特大サイズまで、無数の白猫たちがずらりと並び、一斉に右手をちょこんと上げて参拝者を出迎えている。願が成就した参拝者たちが感謝を込めて寺へ返納したもので、世界中から集まった人々の祈りと感謝の結晶が、秋の木漏れ日を浴びて温かな光を放っていた。

「すごい数だね……。鷹狩りの帰りだった井伊直孝公が、門前で手招きをする白猫に誘われて寺で雨宿りをしたところ、直後に激しい雷雨が襲って落雷の難を逃れた。住職の説法にも感銘を受けた直孝公が多額の寄進を行い、井伊家の菩提寺として寺が栄えたという故事が、この招福猫児の始まりなんだ」

近藤は腰を深く落とし、無数に並ぶ招福猫児たちの愛らしい表情にピントを合わせ、背景に秋色に染まる木々をぼかしてシャッターを切った。

「カシャ」

「ねえ近藤君、この猫たち、みんな右手を上げているだけで、小判を持っていないよね? 普通の招き猫って、金色の小判を抱えてるイメージがあるけど……」

まゆみの鋭い観察に、近藤は嬉しそうに頷いた。

「よく気づいたね、まゆみさん。豪徳寺の招福猫児が小判を持っていないのには、すごく深い仏教の教えがあるんだ。『猫は人に福そのものを授けるのではなく、機会やご縁をもたらしてくれる存在である。そのいただいたご縁をどう活かして、福(小判)に育て上げるかは本人次第である』という考え方なんだよ」

「わあ……! 福を待つんじゃなくて、ご縁を大切にして自分で福を掴み取るんだ。すごく前向きで素敵な教えだね!」

まゆみは目を輝かせ、取材バインダーにその言葉を素早く書き留めた。

「ねえ近藤君、私たちのオフィスのデスクにも、この招福猫児を一体お迎えしない? 毎日の取材と記事作りの素敵なお守りになると思うの!」

「いいね。記念に一体受けて帰ろう」

二人は心を躍らせながら、寺務所の授与所窓口へと向かった。 しかし、受付の前に立った二人の目に飛び込んできたのは、窓口の目立つ場所に掲げられた一枚の案内板だった。

『本日分 招福猫児(置物) 全サイズ 完売・欠品中』

「えっ……」

まゆみの足がぴたりと止まった。窓口の寺務員に恐る恐る尋ねると、昨今の国内外での爆発的な人気に加え、職人が一体ずつ手作業で絵付けを行っているため生産数が限られており、連日午前中のうちに完売してしまう状況が続いているのだという。

「うそ……全部売り切れちゃってる。せっかくここまで来たのに、連れて帰れないんだ……」

まゆみはショックを隠しきれず、眉を下げてぽつりと呟いた。手元に置物がない寂しさに、肩が少しだけ落ちてしまう。

そんなまゆみの横顔を見つめ、近藤はふっと柔らかく微笑みかけた。

「まゆみさん、がっかりすることないよ。さっきの招福猫児の教えをもう一度思い出してみて」

「え……?」

まゆみが顔を上げると、近藤は紅葉に包まれた三重塔と招福殿の杜をゆっくりと見渡しながら語りかけた。

「形ある猫の置物は手に入らなかったけれど、僕たちは今日、この豪徳寺で何を受け取ったと思う? 抜けるような秋晴れ、見事な紅葉、三重塔の隠れ猫、そして何千もの人たちの感謝の祈りが詰まった奉納所の光景……。これ以上ないくらい素晴らしい『歴史と美しさのご縁』を、猫たちからしっかり手招きしてもらって受け取ったじゃないか」

近藤はしっかりとまゆみの目を見つめた。

「手元に小判(置物)がなくても、いただいたこの最高のご縁を、僕たちの言葉と写真で最高の記事という福に変える。それこそが、豪徳寺の招福猫児が僕たちに教えてくれた一番大切なことなんじゃないかな」

近藤の真っ直ぐで温かな言葉が、まゆみの心にすっと染み渡っていく。 まゆみは目を見張り、それからパッと顔を輝かせて吹き出すように笑った。

「……うん! 近藤君の言う通りだね! 置物が買えなかったことすら、『自分たちの手で記事を福にしなさい』っていう猫からの粋なメッセージだったんだ!」

「その通りだよ。ほら、置物は欠品でも、招福猫児の印が押された御朱印や絵馬なら受けることができるよ」

二人は寺務所で、招福観音の墨書に可愛らしい招き猫の朱印があしらわれた御朱印を受けた。手元に広がる墨と朱の鮮やかなコントラストが、秋の木漏れ日を浴びて誇らしげに輝いている。

境内奥に静かに広がる国指定史跡・井伊家墓所にも手を合わせ、幕末の大老・井伊直弼をはじめとする歴史の巨人たちが眠る静寂の空気を肌で感じ取った二人。

「近藤君、下馬の静寂から世田谷八幡宮の力強さ、そして豪徳寺の温かい教えと紅葉の美しさまで……本当に素晴らしい物語が繋がってきたね!」

「ああ。いよいよ次が世田谷線沿線巡りのラスト――松陰神社だ。吉田松陰先生の志の杜へ、全力で向かおう!」

「うん! 私たちの熱い想いを全部込めて、最高のフィナーレにしようね!」

秋風に揺れる木々の葉音と世田谷線の長閑な走行音を背に受けながら、二人は満面の笑みを交わし、次なる歴史の舞台へと力強い足取りで歩み出していった。

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