豪徳寺(東京都世田谷区豪徳寺)Private参拝Story

豪徳寺、近藤君とまゆみさん 長編(フィクション)
豪徳寺、近藤君とまゆみさん

第一部:補足取材ストーリー

――彦根藩井伊家の江戸結界と、小判を持たぬ招福の深層――

十一月初旬の夕暮れ、豪徳寺の境内を包む松並木とモミジの梢には、西に傾いた柔らかな茜色の陽光が差し込み、木造三重塔の檜皮色の屋根と白壁に見事な陰影を刻んでいた。

世田谷線の山下駅方面へと歩いていく近藤とまゆみの弾むような足音を見送ったあと、佐久間学は招福殿の前まで静かに戻り、奉納所に並ぶ数千体の白い招福猫児(まねぎねこ)の群れに視線を注いだ。手元には、後輩二人が残していった取材シートの控え。「置物が完売・欠品していたからこそ気づいた、縁を自ら福に変える教え」という近藤とまゆみの率直な気付きが、力強い筆跡でびっしりと書き込まれていた。

「ふふ、二人とも置物が買えなくて最初はしょんぼりしてたけど、最後はすっかり頼もしい顔をして帰っていったわね。近藤君のフォローも、まゆみちゃんの切り替えも実に見事だったわ」

背後から、秋の澄んだ空気をまとった穏やかな声が届いた。 キャメルブラウンのウール混ジレにオフホワイトのタートルネックを合わせたやよいが、べっ甲フレームの丸眼鏡を指先で直しながら、佐久間の隣に立って奉納所を見上げた。手には、豪徳寺商店街の和菓子店で買い求めた、猫の焼き印が押された温かい人形焼の包みが提げられている。

「はい、佐久間さん。後輩たちの見事な着眼点を見届けて、歴史担当としてはどんな補足を考えているのかしら?」

「……ええ。二人の『縁を自ら福にする』という解釈は完璧です。だからこそ歴史プロデューサーとしては、なぜこの豪徳寺が彦根藩井伊家の菩提寺となり、江戸の近郊にこれほど強固な拠点を築いたのか――その幕藩体制における地政学的な意味を補足しておきたいんです」

佐久間はショルダーバッグから江戸近郊の武家屋敷配置図と、世田谷城址周辺の古地図を取り出し、手入れの行き届いた石畳の脇で広げた。

「近藤たちの取材通り、寛永十年(1633年)に井伊直孝公が荒廃していた弘徳庵を再興したのが豪徳寺の始まりです。ですが、なぜ徳川幕府の筆頭譜代大名である彦根藩が、江戸城から離れたこの世田谷の地に広大な菩提寺を構えたのか。それは、この場所がかつて吉良氏の世田谷城主郭の一部であり、西から江戸へ入る大山街道や矢倉沢往還を扼する軍事・交通の要衝だったからです」

佐久間は古地図上の流路と街道を指先でなぞりながら、静かに解説を続ける。

「井伊家は幕府の重臣として、江戸城下の桜田屋敷や赤坂屋敷だけでなく、西の防衛線としての世田谷に寺領を持ち、有事の際の拠点・後背地としての役割を担っていました。そして、直孝公を雷雨から救ったとされる白猫伝説。これは単なる奇談ではなく、激動の江戸初期において、武力一辺倒から禅の教えと平和共存の統治へと舵を切った武家の精神的転換を象徴しているとも言えます」

「なるほどね……。豪徳寺の猫が小判を持たないのは、武士が金銭や目先の利益に溺れず、徳と機会(ご縁)を尊ぶ禅の精神そのものなんだね」

やよいは手帳を開き、佐久間の言葉をさらさらと書き留めた。

「ええ。幕末の大老・井伊直弼公が国難の中で開国という重い決断を下し、いまこの静寂の墓所に眠っていることも、その精神の延長線上にあります。後輩たちの瑞々しいレポートに、この譜代筆頭の誇りと禅の思想を重ねることで、記事の奥行きは決定的なものになります」

「完璧な講義ね、佐久間さん。読者もきっと、豪徳寺の招き猫を見る目がガラリと変わるはずよ」

やよいが柔らかく微笑み、佐久間も満足そうに頷いた。

第二部:完全プライベートストーリー

――夕暮れの三重塔と、招かれた確かなご縁――

Private_佐久間とやよい
Private_佐久間とやよい

「はい! お仕事の補足講義はここまで。佐久間さん、ここからは秋の夕暮れを二人で過ごす時間よ」

やよいは手帳をバッグにしまい、くるりと振り返って佐久間の腕を軽く引いた。

「やよいさん、まだ仏殿の唐様建築の組物の細部を確認しておきたいんですが……」

「組物の確認はまた今度! ほら、見てごらん? 西日が落ちて、三重塔の紅葉が信じられないくらい赤く燃えているわよ」

やよいは佐久間の返事を待たずに、三重塔の足元へと彼を連れ出した。

夕暮れの冷たい秋風が吹き抜ける境内。燃えるようなモミジの赤と、総檜造りの塔の木肌が夕日に照らされ、息を呑むような静寂と美しさを醸し出している。

「佐久間さん、さっきの『猫は福そのものではなく、ご縁をもたらす』って話……すごく心に染みたよ」

やよいは丸眼鏡を外し、秋風に黒髪をなびかせながら、隣に立つ佐久間をじっと見上げた。夕暮れの淡い茜色が、彼女の白い肌と潤んだ瞳を優しく照らし出している。

「私ね、佐久間さんとこうして一緒に取材チームを組めて、いろんな神社やお寺を歩けていること自体が、私にとって一番の『招かれたご縁』だと思ってるの」

「……え?」

佐久間が驚いて目を丸くすると、やよいはふふっと愛らしそうに微笑み、持っていた和菓子の包みを開いた。

「はい、お疲れ様の甘味。猫の形をした人形焼よ。こし餡がたっぷり入ってて、まだほんのり温かいの。佐久間さん、はい、あーん」

「やよいさん、人前です……! 自分で食べられますから」

「境内にはもう私たちしかいないわよ? ほら、遠慮しないで口開けて?」

年上の包容力とお茶目な悪戯っぽさに、佐久間は抗う術を失い、観念して口を開けた。口いっぱいに広がる香ばしいカステラ生地の上品な甘みと小豆の風味が、歩き疲れた身体にじんわりと染み渡っていく。

「ふふ、美味しい?」

「……はい。とても美味しいです」

「素直でよろしい。……ねえ、佐久間さん」

やよいは残りの人形焼を小さく口に運びながら、三重塔のてっぺんを見上げた。

「招き猫の置物が売り切れてたって、ちっとも残念じゃないわ。だって、形のある置物が手元になくても、私には佐久間さんっていう頼もしくて、不器用で、誰よりも誠実なパートナーが隣にいてくれるんだもの」

やよいは一歩、佐久間との距離を詰め、そっと彼のコートの袖口を指先で握った。

「いただいたご縁を、二人で大切に育てて、最高の福にしていく……。それって、仕事だけじゃなくて、私たちのこれからの時間にも言えることだと思わない?」

「……っ」

不意に投げかけられた真っ直ぐな言葉の重みと温もりに、佐久間は息を呑んだ。夕暮れの冷気が頬を撫でているというのに、首元から耳の先まで一気に熱くなっていくのが分かる。

「……やよいさんは、本当に狡いです。そんな風に言われたら、僕がどれだけ救われるか分かって言っていますか」

「あら、本心を言っただけよ? 狡いだなんて人聞きの悪い」

「いつも僕の不器用さも頑なさも、全部まるごと包み込んでしまう。……敵いませんよ、やよいさんには」

佐久間が視線を落として小さく呟くと、やよいは満足そうに目を細め、握っていた袖口からそっと手を滑らせて、佐久間の温かい手の上に自分の指を重ねた。

「敵わなくていいの。私が佐久間さんの手を引いて、佐久間さんが私の足元を照らしてくれる……それで全部うまくいくんだから。さあ、最後の一社――松陰神社へ向かいましょ。吉田松陰先生の志に、私たちの覚悟を伝えに行かなきゃね」

「……はい。参りましょう、やよいさん」

二人が並んで歩き出すと、夕暮れの松並木に二つの長い影が寄り添うように重なり合って伸びていった。

譜代筆頭の歴史を刻み、無数の祈りとご縁を繋ぎ続けてきた豪徳寺の杜に、静かな夜の帳が降りてくる。 互いの手の温もりと確かな絆を胸に抱きながら、二人の足音は秋の石畳を力強く踏みしめていった。

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