十一月初旬の世田谷は、雲ひとつない抜けるような秋晴れの青空がどこまでも高く広がり、澄み切った心地よい秋風が色づく木々の梢をサヤサヤと揺らしながら通り抜けていた。
豪徳寺で招福猫児が教えてくれた温かな教えと見事な紅葉を目に焼き付けた二人は、再び世田谷線の2両編成の電車に乗り込み、ガタゴトと長閑な揺れに身を任せて「松陰神社前駅」へと降り立った。
改札を出ると、そこには昔ながらの温もりと今風の洒落たカフェやベーカリーが心地よく調和した松陰神社通り商店街が続いていた。香ばしい焼き立てパンの匂いや珈琲の香りが漂う通りを北へ進み、若林の閑静な住宅街の並木を抜けると、十一月の柔らかな木漏れ日を浴びて「松陰神社」の白木の大鳥居と清々しい鎮守の杜が二人を迎えた。
西澄寺から始まった世田谷線沿線巡り全六カ所の取材旅も、いよいよここが結願の地となる。
「近藤君、見て! 豪徳寺の重厚で荘厳な雰囲気から一転して、すごく明るくて凛とした風が吹き抜けているね!」
まゆみは淡いキャメル色のニットカーディガンの裾を整え、カメラバッグを肩に掛け直して眩しそうに参道を見上げた。手元の取材バインダーには、西澄寺の静寂、駒繁神社の覚悟、世田谷観音の平和の祈り、世田谷八幡宮の力強い土俵、豪徳寺の招福のご縁と、積み重ねてきた濃密な記録と写真リストがぎっしりと挟まれている。
「ここは幕末の偉大な思想家であり教育者、吉田松陰先生をお祀りする神社だよ。安政六年(1859年)、安政の大獄によって三十歳という若さで刑死した松陰先生の遺骸は、最初南千住の回向院に葬られていたんだ。けれど文久三年(1863年)、先生の門弟であった高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允たちが、長州藩主毛利家の抱え屋敷があったこの若林の地に改葬したのが始まりなんだよ」
近藤正二は一眼レフのレンズフードを直し、参道の両脇に立つ石灯籠と黄金色に色づき始めた銀杏の梢をファインダーに収めた。乃木神社から始まり、世田谷の奥深い歴史の現場を駆け抜けてきた近藤の瞳には、ディレクターとしての揺るぎない自信とプロの気迫が宿っている。
大鳥居をくぐり、清らかに掃き清められた石畳を進むと、参道の右手奥に木造平屋建ての素朴でありながら凛とした佇まいのお堂が現れた。
「近藤君、あれは……!」
まゆみが息を呑んで駆け寄る。
「山口県萩市にある本物の『松下村塾』を忠実に再現・模築した講義室だよ。わずか八畳と十畳半の小さな平屋だけれど、ここから高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋といった、明治維新を切り拓いた数多くの逸材が巣立っていったんだ」
二人は建物の前に立ち、静かに中を見つめた。 畳敷きの部屋の奥には松陰先生の肖像画が掲げられ、壁一面に幕末の熱気が今も染み付いているかのようだった。身分や階級にとらわれず、人と人が本気で日本の未来を語り合い、魂をぶつけ合った学びの原点。
「こんなに小さなお部屋から、日本を大きく動かした人たちが次々と生まれたんだね……」
まゆみは手帳を取り出し、胸の震えをそのままペン先に乗せるようにさらさらと書き留めた。
「松陰先生は、知識を詰め込むことじゃなく、一人ひとりが胸の中にどんな『志』を持つかを一番大切にされたんだよね。ここで学んだ若者たちの熱い想いが、時代を動かしたんだ」
「そう。そして、この松陰神社の存在は、世田谷線沿線の歴史の旅において決定的な意味を持っているんだよ」
近藤は絞りを調整しながら、静かに言葉を継いだ。
「直前に参拝した豪徳寺には、安政の大獄を断行した大老・井伊直弼公が眠っている。そして世田谷線でわずか二駅のこの場所には、その大獄で命を落とした吉田松陰先生が祀られている。幕末の激動の中で真っ向から対立した二人の巨人が、いまこの世田谷の地で静かに隣り合い、時代を超えて人々から敬い祈られているんだ」
「……っ、豪徳寺の井伊直弼公と、松陰神社の吉田松陰先生……!」
まゆみは目を見張り、秋晴れの青空を仰ぎ見た。
「立場は違っても、二人ともこの国のために命懸けで自分の信じる道を貫いたんだよね。どちらの想いも否定せず、こうして同じ街の中で静かに抱き留めている世田谷って、本当に懐が広くて優しい街だね」
「ああ。対立の歴史を越えて、それぞれの志が未来の平和へと繋がっている。僕たちがこの順番で巡ってきた意味が、ここで完全に一つに結ばれた気がするよ」
近藤は松下村塾の軒先に差し込む柔らかな秋の木漏れ日と、未来を見つめるような松陰先生のブロンズ像を構図に収め、迷いなくシャッターを切った。
カシャ、と澄んだシャッター音が境内の静寂に響く。
二人は奥に広がる松陰先生と門弟たちの墓所にも静かに手を合わせた。墓前には徳川家から贈られたとされる石灯籠が立ち、かつての恩讐を越えた和解の証が静かに佇んでいた。
続いて二人は端正な檜造りの社殿の前へと進み、深く二礼、二拍手、そしてもう一度深く一礼。
全六社寺の取材が無事に結願を迎えたことへの感謝、そしてこの旅で受け取った無数の歴史の光と人々の祈りを、読者の心に真っ直ぐ届く最高の記事にするという自らの「志」を、松陰先生の御前で力強く誓い合った。
参拝を終えた二人は授与所へ向かい、「志」の文字が力強く刺繍された神苑ゆかりの「志守」と、松陰先生の御影があしらわれた威厳ある結願の御朱印を受けた。
「近藤君、西澄寺の静寂から始まって、駒繁神社の覚悟、世田谷観音の平和、八幡宮の土俵の熱気、豪徳寺の招福のご縁、そして松陰神社の志……全六社寺、本当に素晴らしい取材の旅になったね!」
まゆみは御朱印帳を大切に抱きしめ、最高に晴れやかな満面の笑みを近藤に向けた。
「ああ。世田谷線のチンチンという音に導かれながら、僕たち自身も大きく成長できた気がするよ。この旅で受け取った全ての情熱を込めて、誰かの心に火を灯す最高の記事を書き上げよう!」
「うん! 私たちの志、全力で届けようね!」
澄み渡る十一月の秋空の下、黄金色に輝く木漏れ日を背に受けながら、二人は充実感と確かな絆を胸に、新たな物語を紡ぎ出す未来へ向かって力強く歩み出していった。

