牛嶋神社(東京・墨田区向島)参拝Story

牛嶋神社、境内社、近藤君とまゆみさん 長編(フィクション)
牛嶋神社、境内社、近藤君とまゆみさん

四月中旬の隅田川は、春の盛りから初夏へと移ろう淡い陽光を水面に反射させ、きらきらと眩しく波打っていた。

浅草側の喧騒を背に東武線の高架下をくぐり、言問橋を渡ると、川面を渡ってきた心地よい春風が頬をなでる。橋の東詰に広がる向島・隅田公園の遊歩道には、盛りを過ぎた八重桜の深い紅色と、芽吹いたばかりの欅や柳の瑞々しい若葉が織りなす鮮やかなコントラストが広がっていた。

「近藤君、見て! 桜の木々の間から、スカイツリーの先端が真っ直ぐ青空に突き抜けてる!」

まゆみは薄手の淡いグリーンのマウンテンパーカーの裾を弾ませ、歩道の縁石に片足を乗せて見上げた。首から提げた一眼レフのストラップをぎゅっと握り直す。前回の乃木神社での初陣取材を経て、カメラを構える仕草や現場を見る目線には、以前のようなおどおどした迷いが消えつつあった。

「まゆみさん、足元気をつけて。……ほら、今日は墨田公園側の借景だけじゃなくて、境内の光の回り方を計算するって決めてただろ」

近藤正二は首から提げたカメラの露出ダイヤルをカチカチと合わせながら、手元のバインダーに挟んだ取材シートをめくった。乃木坂での取材を終えた後、佐久間から「次は川沿いの低地と台地の境界を意識してみろ」とアドバイスをもらい、近藤なりに本所・向島の成り立ちを国会図書館のデジタルアーカイブや古地図で徹底的に読み込んできたのだ。

「分かってるってば! でもさ、ほら、川風がすごく気持ちいいじゃない? 浅草側の下町情緒とはまた違って、向島側に入ると一気に空気が穏やかになるんだね」

「それは、昔からこの辺りが隅田川の『向こう側』――つまり武家や文人たちが風雅を求めて集まった別邸の地だったからだよ。……そして、その土地の原点にあるのが、今日取材する牛嶋神社なんだ」

二人は隅田公園の木立を抜け、牛嶋神社の神域へと一歩足を踏み入れた。

その瞬間、公園を行き交う観光客やランナーの足音がふっと遠のき、厳かな静寂が周囲を包み込んだ。境内に茂る大楠や銀杏の木々が深い緑の天蓋を作り、足元の玉砂利が踏みしめられるたびにシャリ、シャリと清涼な音を立てる。

参道の中央で二人の視界を圧倒したのは、総檜造りの荘厳な社殿……そして、その前に威風堂々とそびえ立つ、異形の木造建築だった。

「これが……全国的にも珍しい『三ツ鳥居』」

まゆみが息を呑んで立ち止まった。

中央の大きな明神鳥居の両脇に、ひと回り小ぶりな鳥居が袖のように組み合わされた「三輪鳥居(みつとりい)」。左右の小鳥居を従えたその姿は、まるで神域を守る巨大な翼を広げているかのようであり、幾重にも重なる木組みの直線が独特の神秘性を放っている。

「東京二十三区内では、ここ牛嶋神社を含めてごくわずかしか現存していない貴重な形式なんだ。奈良の大神神社や秩父の三峯神社など、古い山岳信仰や神奈備(かんなび)信仰にルーツを持つ鳥居だけど、この下町の川沿いに鎮座していること自体が歴史の深さを物語っているよ」

近藤は腰を落とし、広角レンズを装着したカメラのファインダーを覗き込んだ。

「蒼井さんが言ってた。『珍しい建造物を撮るときは、奇抜なアングルに逃げるな。その建造物が背負っている空間全体をどう切り取るかを考えろ』って。……見て、まゆみさん。鳥居の真後ろに、スカイツリーがすっぽり収まる」

「本当だ……! 木造の重厚な三ツ鳥居の真ん中を、未来的なスカイツリーの白い塔体が貫いてる」

「平安時代に建てられた古社の結界と、二十一世紀に建てられた電波塔。千数百年の時を超えて、同じ東京の空の下で一直線に並んでるんだ。……シャッター切るよ」

カシャ、と乾いたシャッター音が新緑の梢に響いた。

液晶モニターを確認したまゆみが、感嘆の声を漏らす。

「すごいよ近藤君! 鳥居の木肌の深い陰影と、スカイツリーのメタリックな質感が、どっちも潰れずに綺麗に出てる。……乃木神社のときより、光の捉え方がずっと立体的になってるよ」

「ありがとう。……でも、本番はこれからだ。まずは神様にご挨拶しよう」

手水舎の清らかな水で手と口を清め、拝殿の前へと進む。

拝殿の正面左右には、一般的な神社で見られる狛犬の代わりに、どっしりと前脚を踏ん張った一対の「狛牛(こまうし)」が鎮座していた。筋骨逞しい体躯と、どこかユーモラスで温かみのある瞳。二人は背筋を伸ばし、総檜造りの重厚な拝殿に向かって深く二礼、二拍手、そしてもう一度深く一礼を捧げた。

「牛嶋神社の創建は、貞観二年――西暦八百六十年。平安時代の高僧、慈覚大師円仁がこの地を訪れた際、須佐之男命(すさのおのみこと)の化身である老翁から御神託を受けて祠を建てたのが始まりとされている」

拝殿を仰ぎながら、近藤がノートをめくって解説を紡ぐ。

「当時、この辺りは隅田川の河口部に広がる広大な洲で、牛の放牧地だったことから『牛嶋(うしじま)』と呼ばれていた。荒れ狂う隅田川の水害と、湿地帯特有の疫病から人々を守るために、厄除けの最強神である須佐之男命が祀られたんだ。その後、清和天皇の皇子である貞辰親王(さだときしんのう)が当地で亡くなられた際、その御霊も合祀されて『牛御前社(うしのごぜんしゃ)』として本所一帯の総鎮守になった」

「川の氾濫と戦いながら暮らしてきた下町の人たちにとって、ここはまさに命の守り神だったんだね」

まゆみは真剣な眼差しで社殿の彫刻を見つめ、それから拝殿の左手へと視線を向けた。

「そして……これが有名な『撫で牛』さんだね」

そこには、柔らかな曲線を描いて静かに座り込む、黒光りした牛の石像が鎮座していた。

文政八年(1825年)に奉納されたとされるその撫で牛は、二百年近くにわたり何十万人もの参拝者に撫でられ続けてきたため、頭や耳、角、そして背中がまるで丹念に磨き上げられた黒漆のように滑らかに光っている。

まゆみはそっと膝をつき、両手で牛の頭を優しく撫でた。ひんやりとした石の感触の奥から、不思議と人の手の温もりがじんわりと伝わってくる。

「自分の体の悪いところや、痛む場所と同じ部分を撫でると病気平癒のご利益がある……それだけじゃなくて、心の中に溜まったトゲや不安、イライラも撫で落としてくれるんだよね」

まゆみはふふっと笑い、バインダーを抱えて立つ近藤を見上げた。

「近藤君、ほら。最近、取材の構成案を夜遅くまで練ってて頭痛いって言ってたでしょ? 牛さんの頭、しっかり撫でておきなよ」

「……まゆみさんこそ、取材用の重い機材リュック背負って肩バキバキだって言ってたじゃないか。肩と腰、念入りに撫でておかないと、このあとの向島歴史散策で動けなくなるよ」

「あ、言ったな〜! じゃあ、二人で頭から足の先まで全部撫でておこう!」

境内に二人の朗らかな笑い声が広がる。

交代で石牛を撫でながら、近藤はふと胸の奥が温かくなるのを感じていた。

「すごいな……」

「え? 何が?」

「いや、この撫で牛のツルツルした表面を見ているとさ。江戸時代の人も、明治や大正、昭和の激動を生きた人たちも、みんな僕たちと同じように『健康でいたい』『大切な人の痛みを治してあげたい』って願いながら、この牛の頭に触れてきたんだなって。教科書の歴史は年号や事件で書かれているけど、神社に残っている歴史は、こういう名もなき人たちの『祈りの積み重ね』そのものなんだ」

「……うん。本当にそうだね」

まゆみはスマートフォンのボイスメモを起動し、静かに言葉を吹き込んだ。

「牛嶋神社に満ちているのは、川と生き、街を守り抜いてきた人々の素朴で切実な祈り。三ツ鳥居の威厳と、撫で牛の滑らかな温もり。その両方が、今も変わらず東京の下町を包み込んでいる――」

授与所に向かった二人は、愛らしい陶器製の「牛みくじ」と、三ツ鳥居をかたどった厄除けの御守を受けた。おみくじを開くと、二人そろって「吉」。書かれていた「誠実に歩めば道は自ずと開く」という言葉に、顔を見合わせて小さく笑い合う。

「近藤君、次は隅田川沿いの旧水戸藩下屋敷跡と、三囲神社の方まで足を延ばそう! 佐久間さんが言ってた『本所の治水と信仰の繋がり』、もっと写真に収めたい!」

「了解。光が夕方に変わる前に、堤防沿いのカットも押さえに行こう」

春の柔らかな木漏れ日の中、二人は再びカメラと取材ノートを手に、元気よく鳥居をくぐり抜けていった。

八重桜の花びらが舞う向島の空に、二人の確かな成長の足音が、軽やかに響き渡っていた。

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