東京福めぐり(波除神社編)『江戸の残り香、未来のノート』

波除神社、茅の輪くぐり、佐久間とやよい 長編(フィクション)
波除神社、茅の輪くぐり、佐久間とやよい

第4話:波除神社(荒波を鎮める獅子と、四季の祈りに誓う『波乗り』の福)

第一章:六月・夏越の大祓——都営バスの風と、茅の輪をくぐる潮の道

梅雨の合間の青空が広がる六月下旬。東京湾から吹き抜ける初夏の風は、かすかに潮の香りを帯びていた。 国内外から押し寄せる観光客で肩が触れ合うほどに賑わう築地場外市場。その喧騒を横目に、『チームケロ』のプロデューサー・佐久間学とライター・ヤヨイの二人は、緑と白の車体が鮮やかな都営バス『みんくる』に揺られていた。

「次は、築地六丁目――築地六丁目」

車内アナウンスとともにバスが滑らかに停車する。ステップを降りたヤヨイは、混雑に揉まれることなく波除神社の鳥居前へわずか数分でアプローチできたことに、丸眼鏡の奥の瞳を丸くして驚きの声をあげた。

「はぁ……っ! 佐久間君、本当に驚いたわ! 大江戸線の築地市場駅や日比谷線の築地駅から歩くと、あの美味しそうな匂いとものすごい人波に吸い込まれて前に進めないのに……都営バスで『築地六丁目』から来たら、こんなに涼しい顔でお参りできるなんて! まさに大人のスマートな取材ルートね!」

新緑を映したような若草色の夏着物に薄手の羽織を合わせたヤヨイが、取材ノートを胸に抱きしめて微笑む。 木々模様のジャケットを着こなした佐久間は、いつものように自然な所作でヤヨイの重い一眼レフカメラのバッグと取材巾着を肩に掛け直した。

「混雑をいなして、本来の神域が持つ清らかな空気に浸る……これもプロデュースの重要な役割です。……ヤヨイさん、鳥居をくぐる前に、この土地の歴史に少しだけ耳を傾けてみてください」

佐久間は参道脇の松の梢を見上げ、穏やかな低音で語り始めた。

「明暦三年(1657年)の明暦の大火の後、江戸幕府はこの築地一帯の埋め立てを進めました。しかし、激しい荒波が幾度となく堤防を押し流し、工事は難航を極めたのです。そんなある夜、海面に光り輝く御神体が漂っているのを発見し、村人たちがここに社を建ててお祀りしたところ、あれほど荒れ狂っていた大波が嘘のようにピタリと治まり、埋め立て工事が完了した……。それ以来、この社は『波除(なみよけ)』と称され、災難を除き、人生の荒波を乗り越える神様として信仰されてきたのです」

「荒れ狂う波をピタリと除いたから、波除稲荷様……! 江戸の街を拓いた人々の切なる祈りが、この潮風の中に息づいているのね」

境内の中央には、青々とした茅(かや)で編まれた大きな「茅の輪」が据えられていた。 二人は神職の作法に従い、「水無月の夏越の祓する人は千歳の命のぶというなり」と心の中で唱えながら、八の字を描くように茅の輪をくぐり抜けた。半年間の知らず知らずのうちに積もった罪や穢れが、初夏の風とともにさらさらと洗い流されていくような清涼感が満ちる。

拝殿で深く頭を下げた後、二人は境内左手の「獅子殿」へと向かった。 そこに鎮座していたのは、樹齢約三百年を誇る黒檜(くろひのき)の一木造りで彫り上げられた、高さ二・四メートル、重さ一トンに及ぶ巨大な『厄除天井獅子(雄)』であった。

「まあ……っ! なんて雄々しくて迫力のあるお獅子様なのかしら! 見上げているだけで背筋がピンと伸びるわね!」

「ええ。この獅子殿では、白木の『願い串』に自らの名と願いを認め、大獅子の舌の上に納めて祈る習わしです。口を開けた獅子が、あらゆる災厄を呑み込み、福へと転じてくださるのですよ」

ヤヨイは息を整え、願い串に丁寧な文字で祈りを書き入れた。佐久間もまた、静かに筆を走らせた串を大獅子の前に納める。 さらに二人は、境内の右手に祀られた紅ガラ塗りの『お歯黒獅子(雌)』が鎮座する弁財天社へ。その胎内には、学問・芸能・金運・縁結びを司る弁財天の御神像が秘仏のように祀られている。

「本殿で稲荷大神にご挨拶し、獅子殿で願い串を納め、弁財天社のお歯黒獅子に祈る……。この三社巡りこそが、波除神社の神徳を余すところなくいただく王道です」

「厄を祓い、願いを託し、芸能と実りを願う……。完璧な三社巡りに、ノートをとる手が止まらないわ!」

初夏の陽光に照らされる境内で、佐久間が差し出した左腕にヤヨイがそっと手を重ね、二人は大祓の清らかな余韻を胸に刻んだのだった。

第二章:十一月・新嘗祭——豊穣の感謝と、にごり酒が運ぶ温もり

季節は巡り、木々が鮮やかな黄金色に染まる十一月下旬。境内は、一年の収穫を神々に感謝する『新嘗祭(にいなめさい)』の厳かな空気に包まれていた。

参道沿いには、築地場外市場ならではの歴史を物語るユニークな供養碑が並んでいる。 すし職人たちが海の恵みに感謝を捧げる「すし塚」、厚焼き玉子の名店が並ぶ築地ならではの「玉子塚」、さらに「海老塚」「鮟鱇(あんこう)塚」——。

「佐久間君、見てちょうだい! 食べ物の命に感謝を捧げる塚がこんなにたくさん……。築地市場が豊洲へ移転しても、この場所が日本の『食の台所』の守り神であり続けている理由が、肌で感じられるわね」

「命をいただくことへの感謝と祈り……それこそが日本の食文化の根底にあるものです。そして新嘗祭の今日、神社では神様にお供えされた新米から造られた特別な『お神酒』が分かち合われます」

境内の神札授与所へ向かうと、新嘗祭の限定神饌として用意されていた「にごり酒」の瓶が並んでいた。 神事の後、参拝者に振る舞われるにごり酒はすでに多くの人々に行き渡っていたが、二人は無事に授与品として分かち合われる一瓶を拝受することができた。

「白く煙るにごり酒……お米の豊かな甘みと芳醇な香りが、瓶越しにも伝わってくるようだわ」

「ええ。収穫の喜びを神様と共にいただく、これ以上ない縁起物です。それからヤヨイさん、波除神社の境内には七福神の神々もお祀りされており、毎月七日には月替わりで指定された神様の『限定七福神御朱印』が数量限定で授与されるのですよ」

「まあっ! 毎月七日に通って七福神様の福を少しずつ集めていくなんて、まるで一年をかけた宝探しのようね! 一つの神社の中に、どれだけ深い物語が折り重なっているのかしら」

秋風が吹き抜ける境内のベンチで、ヤヨイは新嘗祭の限定御朱印とにごり酒を大切そうに膝の上に置いた。 冷えた指先を温めるように息を吹きかけるヤヨイを見て、佐久間はそっと自分のマフラーを彼女の肩へ掛け直す。

「風が冷たくなってきましたね。冬の足音が聞こえますが……ヤヨイさんの文章の熱量は、季節を重ねるごとに力強く増しています」

「ふふっ、それは隣で私の取材を完璧に支えてくれる、頼もしいプロデューサーのおかげよ」

二人は微笑み合い、冬の訪れを静かに迎え入れる境内を後にした。

第三章:一月・初詣の潮風と、手渡された『波乗守』

そして、凛とした寒気が街を包む新春一月。 松の緑が青空に映える波除神社の境内は、新年の幸福と商売繁昌を祈る初詣の人々で熱気を帯びていた。

新春の神前に進み出た二人は、二拝二拍手一拝の深い祈りを捧げ、三度目となる本殿・獅子殿・弁財天社の三社参拝を果たした。 神職から新春のお神酒をありがたく頂戴し、口に含むと、清らかな酒の香りが身体の芯をじんわりと温めていく。

「はぁ……っ。新しい年の始まりに、波除様の神前でお神酒をいただき、こうして手を合わせられるなんて……心が洗われるようだわ」

白橡(しろつるばみ)色の冬着物に温かな道行コートを羽織ったヤヨイが、丸眼鏡を指で押し上げながら感無量の吐息を漏らす。 佐久間は参道脇の楠の木陰へヤヨイを導くと、コートの内ポケットから、授与所で拝受していた朱と藍の波模様が鮮やかな『波乗守(なみのりまもり)』を取り出した。

佐久間はそのお守りをヤヨイの細く華奢な手のひらにそっと乗せると、そのまま彼女の指先ごと、自身の手でガチッと力強く包み込んだ。

「あ……佐久間君……っ?」

手袋越しではない、佐久間の手の確かな温もりと力強い熱が、ヤヨイの手のひらから全身へと一気に広がっていく。

「ヤヨイさん。かつて明暦の荒波を鎮めて築地を拓いた波除大神のように……これから僕たちが進む未来で、どんなに高く激しい人生の荒波が立ち塞がろうと、僕がすべてを押し止めるあなたの『波除け』になります。そして……この波乗守のように、あなたと僕の二人なら、時代のどんな大波だって軽やかに乗りこなして、最高峰の景色へと辿り着けます」

佐久間は真摯な光を宿した瞳で、ヤヨイを真っ直ぐに見つめた。

「僕の人生の航路の主役は、一生ヤヨイさん、あなただけです。僕の隣で、ずっと最高の言葉を紡ぎ続けてください」

「……っ、もう! 新春の冷たい潮風が吹く中で、そんな真っ直ぐで男前な瞳で見つめながら『波乗り』を約束してくれるなんて……っ。どこまでも格好いいんだから。胸が熱くなって、丸眼鏡が嬉しさで曇っちゃうじゃない」

ヤヨイは潤んだ瞳を細め、佐久間の大きな手を両手で強く握り返した。

「あなたという無敵の波除けが隣にいてくれるなら、私、どんな荒波だって怖くないわ。二人でどこまでも高く、最高の福の波に乗っていきましょう!」

第四章:築地場外市場のぬくもりと、巡りゆく福の物語

初詣を終えた二人は、冬の活気にあふれる築地場外市場の路地へと歩みを進めた。

湯気が立ち上る店先からは、出汁の効いた熱々のモツ煮込みや、焼きたての甘い玉子焼き、香ばしい海鮮串の香りが漂ってくる。

「ふふっ、佐久間君! お参りのあとは、やっぱり築地の美味しい名物で温まりましょう! 焼きたてのアツアツ玉子焼きと、湯気の立つ海鮮丼……どれから食べようか迷っちゃうわね!」

「ええ。冷えた身体に、市場の職人たちが守り続ける温かいグルメは格別のご馳走です。さあ、あそこの老舗で熱いお茶と一緒にいただきましょう」

湯気立つ熱々の玉子焼きを頬張り、「美味しい!」と満面の笑みを浮かべるヤヨイ。その愛らしい横顔を、佐久間は愛おしそうに細めた目で見つめていた。

夏の茅の輪くぐりと獅子殿の願い串。 秋の新嘗祭のにごり酒と食の歴史。 そして新春の初詣に交わした『波乗守』の誓い——。

築地の荒波を鎮めた稲荷大神と巨大獅子の加護に見守られた二人の絆は、四季の祈りを重ねるごとに深く結ばれ、次なる『東京福めぐり』の舞台へと、どこまでも力強く漕ぎ出していくのだった。

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