太田姫稲荷 紅い願いの結び目(短編)

江戸時代、ちーこと蒼井 短編江戸(フィクション)
江戸時代、ちーこと蒼井

太田姫稲荷へ続く坂道へ差しかかる頃、空に薄い雲が広がり始めた。
町の喧騒が少しずつ遠のき、木々の葉を揺らす風の音が近くなる。
朱の鳥居が見えてくると、ちーこは自然に歩みを緩めた。

「ここが、太田姫さま……」

鳥居の向こうには、華やかさとは異なる、静かな気配が満ちていた。
病気平癒を願う母親。
旅の無事を祈る商人。
子どもの手を引く父親。
誰もが胸の内に言葉にできぬ願いを抱え、社殿へ頭を下げていた。

「太田道灌公のお姫さまも、重い病にかかられたのですよね」ちーこが尋ねた。

「そう伝えられている」恒一郎は答えた。

「道灌公が娘の平癒を願い、一口稲荷を勧請した。祈りが届き、娘は病を乗り越えた。それ以来、病を退ける御神徳を頼り、多くの者がここへ参るようになったという」

「親が子を思う心は、武家も町人も変わりませんね」

「ああ」

「道灌公は、どのようなお気持ちだったのでしょう」

「城を築き、兵を率いるほどの者でも、娘の枕元では何もできぬ父親だったのだろう」
恒一郎の言葉を聞き、ちーこは社殿を見つめた。
権勢を持つ者にも、剣に優れた者にも、どうにもできないものがある。

病。
別れ。
人の命。

だからこそ、人は祈るのだろう。
自分の力では届かない場所へ、どうか願いだけでも届くようにと。

二人は手水を使い、社殿の前へ進んだ。

ちーこは賽銭を納め、静かに手を合わせた。
いつもなら、願い事を口の中で何度も唱える彼女が、その日は何も言わなかった。
ただ目を閉じ、長く頭を下げていた。

――太田姫さま。

――お千代ちゃんの熱を、どうかお鎮めください。

――あの子がまた笑って、三ツ葉屋へ遊びに来られますように。

――母親の心配が、少しでも軽くなりますように。

ちーこは、ふと別の願いを思い浮かべた。

――それから。

――恒一郎さまが、毎日の見回りから無事に帰ってきますように。

見回り役の仕事に危険はつきものだった。
酔った浪人を取り押さえることもあれば、盗賊を追うこともある。
剣の腕が立つからといって、必ず無事に戻れるとは限らない。
そのことを考えるたび、ちーこの胸は小さく痛んだ。
けれど、本人の前では決して言わない。
心配していると知られれば、恒一郎が自分を子ども扱いするような気がしたからだ。

祈りを終えて顔を上げると、恒一郎が横から見ていた。
「ずいぶん長い願いだったな」

「神さまと大切なお話をしていたのです」

「お千代のことか」

「それは秘密です」

「顔に書いてある」

「恒一郎さまこそ、何をお願いしたのです」

「言えば御利益が逃げる」

「まあ、わたしの真似をなさって」ちーこは口を尖らせた。

そのときだった。

境内の隅から、女の泣き声が聞こえた。
見ると、若い母親が小さな男の子を抱きしめている。

「どうなさったのです」

ちーこはすぐに駆け寄った。

母親によれば、子どもが急に苦しそうに咳き込み、息が整わなくなったという。
恒一郎も膝をつき、男の子の様子を見た。

「喉に何か詰まったのではないか」母親は青ざめた。

男の子の手には、割れた飴の欠片が握られている。

恒一郎が身体を支え、背を叩いた。
しかし、男の子は苦しげに口を開くだけだった。

「恒一郎さま」ちーこの声が震えた。

「医者を呼べ」

恒一郎が叫んだ。
境内にいた男が走り出す。
その間にも、子どもの顔色は悪くなっていく。

ちーこは男の子の前へ座った。

「坊や、わたしを見て」

返事はない。

「大丈夫。怖くないわ。すぐ楽になるから」

ちーこは優しく声をかけながら、子どもの口元を見た。

小さな飴が、喉の入り口近くに見えた。

「恒一郎さま、身体を少し前へ」

「何をする」

「取れるかもしれません」

「無理をするな」

「でも、このままでは」

ちーこの声には、普段とは違う強さがあった。
恒一郎は一瞬迷い、子どもの身体を前へ傾けた。

ちーこは細い指を慎重に伸ばした。
一度目は届かない。
二度目、子どもが激しく身をよじった。

母親が悲鳴を上げる。

「大丈夫よ」

ちーこは子どもへ言ったのか、自分へ言ったのか分からなかった。

三度目。

指先に硬いものが触れた。

ちーこは飴の欠片をつまみ、引き出した。

次の瞬間、男の子が大きく咳き込んだ。
そして、境内に響くほどの声で泣き始めた。

母親も泣きながら、その子を抱きしめた。
「ありがとうございます。ありがとうございます」

何度も頭を下げる母親に、ちーこは首を振った。

「よかった。本当によかった……」

緊張が解けたのだろう。
ちーこはその場に座り込んだ。

恒一郎が腕を取る。
「怪我はないか」

「わたしではなく、坊やを見てくださいませ」

「坊やは泣いている。泣けるなら、ひとまず大丈夫だ」

やがて医者が駆けつけ、子どもの無事を確かめた。

境内に安堵の空気が広がった。

母親は太田姫稲荷の社殿へ何度も手を合わせた。

「きっと太田姫さまが、このお方を遣わしてくださったのです」

母親がちーこを見て言った。

「わたしは、そんな立派なものではありません」

「いいえ。あなたさまがいなければ、この子は……」

ちーこは困ったように恒一郎を見た。

恒一郎は静かに答えた。

「この者は、困っている人間を見ると、考えるより先に身体が動くのです」

「褒めているのですか」

「半分はな」

「残り半分は何です」

「後先を考えぬ、おっちょこちょいだと言っている」

「まあ、こんなときまで」

周囲から笑い声が起こった。
泣いていた母親も、涙を拭いながら笑った。
太田姫稲荷の境内に、再び穏やかな風が吹いた。
朱の鳥居に結ばれた白い布が、かすかに揺れていた。

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