太田姫稲荷 紅い願いの結び目(短編)

江戸時代、ちーこと蒼井 短編江戸(フィクション)
江戸時代、ちーこと蒼井

帰り道、ちーこと恒一郎は坂を並んで下った。
夕暮れが近づき、町の屋根が淡い茜色に染まり始めていた。
しばらく、二人は黙って歩いた。やがて恒一郎が口を開いた。
「先ほど、何を願った」

「秘密だと申しました」

「お千代のほかに、もうひとつあっただろう」ちーこは足を止めた。

「どうして分かるのです」

「顔を見れば分かる」

「恒一郎さまは、わたしの顔に何でも書いてあるとお思いなのですね」

「たいていは書いてある」

「では、読んでみてくださいませ」
ちーこは恒一郎の正面へ立った。

夕風が、彼女の着物の袖を揺らす。
恒一郎は、その顔をしばらく見つめた。

「俺が無事に役目を果たせるように、と願った」

ちーこの頬が赤くなった。
「違います」

「違うのか」

「違いませんけれど……」

「どちらだ」

「もう、恒一郎さまは意地が悪うございます」
ちーこは顔を背け、先に歩き出した。

恒一郎は笑いながら、その後を追った。
「では、俺の願いも教えてやろう」

「聞きたくありません」

「聞いておけ」

「嫌です」

「ちーこが、これ以上転ばぬようにと願った」
ちーこが勢いよく振り返った。

「それだけですか」

「まずは、それが大事だ」

「ほかには」

「ない」

「本当に」
恒一郎は答えず、歩き続けた。

ちーこはその横へ追いつくと、袂をつかんだ。
「本当のことをおっしゃってくださいませ」

「町中で袖を引くな」

「おっしゃるまで離しません」

「子どもではあるまいし」

「恒一郎さまが隠し事をなさるからです」

二人の様子を、通りの町人たちが笑いながら眺めていた。
「蒼井の若旦那が、また引かれているぞ」

「今日は三ツ葉屋のお嬢さんの勝ちだな」

そんな声を聞きながら、恒一郎は小さくため息をついた。
そして、誰にも聞こえないほどの声で言った。

「お前が、いつまでも俺の隣で笑っていられるようにと願った」

ちーこの足が止まった。
恒一郎は、そのまま前を歩いていく。
「恒一郎さま」

返事はない。

「いま、何とおっしゃいました」

「何も言っていない」

「聞こえました」

「ならば聞き返すな」

ちーこはしばらく立ち尽くしていたが、やがて満面の笑みを浮かべた。
そして着物の裾を押さえながら、恒一郎のもとへ駆けていった。

「待ってくださいませ」

「走るな。転ぶぞ」

「転びません」
言った途端、ちーこの草履が石につまずいた。

身体が前へ傾く。
恒一郎は振り返り、その身体を受け止めた。
通りに、また町人たちの笑い声が広がる。

「ほら、やはり転んだ」

「これは石が悪いのです」

「太田姫さまへの願いが、早くも無駄になったな」

「神さまに失礼でございます」
ちーこは恒一郎の腕の中で顔を上げた。

「けれど、恒一郎さまが受け止めてくださるなら、少しくらい転んでもよい気がいたします」

「よくない」

「これからも、受け止めてくださいませ」
恒一郎は答えなかった。
ただ、ちーこの身体を支える腕に、わずかに力を込めた。
夕暮れの神田の町に、家々の灯が一つ、また一つとともり始める。
太田姫稲荷の鳥居は、遠くなっていた。
それでも二人が胸に結んだ願いは、紅い糸のように消えることなく、これから続く長い年月へ伸びていた。
病に伏した少女が再び笑えるように。
町の人々が無事に明日を迎えられるように。
そして、勝気な商家の娘と、彼女に心を奪われた若い見回り役が、いつの日か夫婦として同じ家の暖簾をくぐれるように。
江戸の風は、その願いを運ぶように、二人の背中を優しく押していた。

終わり

史実上の土台

太田姫稲荷神社は、太田道灌が娘の病気平癒を祈って稲荷神を勧請したという伝承を持ち、疱瘡などの病気平癒を願う信仰と結びついています。物語中の参拝、子どもの救助、ちーこと恒一郎の会話は創作です。資料確認日は2026年7月25日です。

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