三月中旬の多摩盆地は、奥多摩の山並みから吹き下ろす引き締まった冷気と、浅川の河原を潤す柔らかな早春の光がせめぎ合う、澄み渡るような季節を迎えていた。
京王線高幡不動駅の改札を抜けると、駅前ロータリーから仁王門へと続く参道商店街は、朝早くから独特の熱気と香りに満ちていた。軒先で次々と蒸し上げられる「高幡まんじゅう」の甘い湯気、門前そば処の香ばしい鰹出汁の匂い、そして遠くの境内から春風に乗って運ばれてくる清らかな線香の香り。
通りを行き交う人々には、この時期特有の明るさと緊張感が滲んでいた。春休みを利用して新選組ゆかりの地を巡る大学生たちのグループや、免許を取得したばかりの若者が初心者マークを付けた車を祓ってもらおうと家族で歩く姿。キャリーケースを引いて上京や卒業旅行の途中に立ち寄った若者たちの足取りには、新年度の始まりを前にした高揚感が満ちている。
「近藤君、見て! 参道の突き当たり、門の屋根越しに五重塔のてっぺんが見えてる!」
まゆみは淡いアイボリーのスプリングコートの裾を翻し、カメラバッグのストラップを肩に掛け直して指差した。乃木神社、牛嶋神社、大國魂神社と立て続けにメイン取材をこなしてきた彼女の足取りには、かつてのアシスタント時代のような躊躇いはもはや微塵もない。
「まゆみさん、まずは門前の活気と仁王門の木組みをセットで押さえるよ。ここは関東三大不動の一つ、真言宗智山派の別格本山・高幡山金剛寺。平安初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって開山したとも伝わる屈指の名刹だ。門前町の賑わいから一歩で古刹の静寂へ入るコントラストを表現したい」
近藤正二は一眼レフの露出ダイヤルを小気味よく合わせながら、手元の取材バインダーをめくった。佐久間から叩き込まれた歴史の構造と、蒼井から学んだ光の読み方。それらが今、近藤の体の中で確かな自信となって息づいている。
参道商店街を抜けると、堂々たる威容を誇る「仁王門」が二人を迎えた。 室町時代前期の建立とされる国指定重要文化財。幾多の風雪を耐え抜いた欅の柱は深い飴色に沈み、軒下の複雑な組物が重厚な陰影を刻んでいる。その向こうには、平安初期の様式を模して再建された総高四十五メートルの「五重塔」が、抜けるような三月の青空へ向かって鮮烈な朱色の直線を伸ばしていた。
「室町時代の古色と、五重塔の鮮やかな朱。この重なりがたまらないな」
近藤は腰を落とし、仁王門の柱をフレームの前景に配して五重塔を仰ぎ見るアングルを定めた。
カシャ、と乾いたシャッター音が響く。
手応えを確かめ合った二人は、仁王門で深く一礼し、境内へと足を踏み入れた。
境内の中央にどっしりと腰を据えるのは、東京都最古の木造文化財建造物である「不動堂」だ。建武二年(1335年)、裏山の山崩れによって山上の堂宇が倒壊した際、中興第一世・儀海上人がこの地に移建した奇跡の遺構。幾度の大火や震災をくぐり抜け、六百年以上もの間、人々の祈りを受け止め続けてきた。
堂内へ足を踏み入れると、外の春の日差しから一変し、線香と沈香の深い香煙が漂う厳粛な闇が広がっていた。
「ドーーーーン……ドーーーーン……」
突如として打ち鳴らされた大太鼓の地響きが、二人の足元から胸の奥へと直接響き渡る。 導師の力強い読経と錫杖の金属音が重なり合う中、中央の護摩壇から真っ赤な炎が柱となって天井へと立ちのぼった。
パチパチと爆ぜる護摩木の火の粉。揺らめく智火の炎の奥に、忿怒の形相で悪魔を断ち切る宝剣を握り、煩悩を縛り上げる羂索を手にした不動明王の御姿が、明滅する光の中に浮かび上がっていた。
「……っ」
二人は息を呑み、圧倒的な気迫に打たれて自然と両手を合わせた。 あらゆる邪心や迷い、厄災を猛火で焼き尽くし、人々を正しい道へと力づくで導く不動明王。その凄まじい現世利益の力強さに触れ、春からの新しい挑戦に対する不安や迷いが、炎の中に吸い込まれて消えていくような感覚を覚える。
護摩修行を終えて堂外へ出ると、早春の冷涼な風が熱を帯びた頬を心地よく冷ましてくれた。
二人は仁王門の脇、多摩の青空に向かって凛とした立ち姿を見せる「土方歳三銅像」の前へと歩みを進めた。
腰に大小の刀を差し、羽織の裾を風になびかせて遠くを見つめる土方歳三。その隣には、近藤勇と土方歳三の功績を称える「殉節両雄の碑」が静かに佇んでいる。
「土方歳三は、ここ日野の石田村に生まれて、この高幡不動尊を菩提寺として育ったんだよね」
まゆみは銅像の鋭い眼差しを見上げながら、静かに言葉を紡いだ。
「激動の幕末、時代の波に飲まれそうになりながらも、最後の最後まで『新選組』としての誇りと自分の信念を絶対に曲げなかった人。……春って、卒業したり就職したり、新しい環境に飛び込むのが怖くて周りに流されそうになる季節だけど、この像を見ていると『自分の選んだ道を貫く強さ』を教えてもらえる気がするよ」
「ああ。不動明王の『何事にも動じない心』を、まさに命を懸けて体現したのが土方歳三だったんだろうな」
近藤は頷き、土方像の横顔と五重塔の相輪が重なるドラマチックなアングルでファインダーを覗き込んだ。
「高幡不動尊は、交通安全の祈願殿に代表されるように、新しい道へ走り出す人の安全を見守る場所でもある。でもそれだけじゃなく、土方歳三のように『己の信念というハンドルを握り続ける覚悟』を授けてくれる場所なんだ。……このメッセージは、絶対に今回の記事の核にしよう」
その後、二人は奥殿に安置された平安時代の巨像「国重要文化財・丈六不動三尊像」の圧倒的なスケールに圧倒され、さらに大日堂の「鳴り龍」の下で手を打ち、天井から降る澄んだ反響音に耳を澄ませた。
寺務所へ向かった二人は、三月中旬から授与が始まる春季限定の「桜と土方歳三の切り絵御朱印」を受けた。精巧にカッティングされた桜の花びらと歳三のシルエットが、手元で春の光を透かして美しく輝いている。
「近藤君、春の門出を迎える読者に、この力強さと背中を押してくれる温かさを全力で届けよう!」
「うん! 多摩の歴史と不動明王の炎の記憶、僕たちの最高の言葉と写真で形にしよう!」
夕暮れの鐘の音が多摩丘陵に静かに響き渡る中、二人は確かな手応えと充実感を胸に、山門を後にした。その背中には、もう迷いなどどこにもなかった。

