七月下旬の太陽は、容赦なく東京の街を照りつけていた。
六本木方面へと延びる外苑東通りには陽炎が揺らめき、行き交う車のタイヤが熱せられたアスファルトを擦る鈍い音が響いている。だが、東京メトロ千代田線乃木坂駅の1番出口から地上へ這い出た近藤正二とまゆみにとって、その熱気は単なる気温以上の重圧となっていた。
「近藤君、バインダーの角、曲がってるよ。緊張しすぎ」
「……まゆみさんこそ、さっきからカメラバッグのファスナーを三回も開け閉めしてるじゃないか」
「これは機材チェック! 蒼井さんから『現場での確認不足は命取り』って言われたでしょ」
言い合いながらも、二人の足取りには隠しきれない硬さがあった。
これまでは、蒼井の的確な撮影指示に従って三脚を担ぎ、佐久間の膨大な歴史解説を後ろから聞きながらメモを取るだけでよかった。チーコの研ぎ澄まされた感性に感嘆し、やよいの紡ぐ柔らかな文章を校正刷りで眺める側の立場。だが今日、TeamKeroの取材手帳を託されたのは、入社二年目の若手二人だけだった。
「行くよ。まずは一の鳥居から」
近藤が深呼吸を一つして、鳥居の前で立ち止まる。
石造りの鳥居をくぐり、一歩境内へと足を踏み入れた瞬間、世界から余計な雑音がふっと消え去った。
外苑東通りの喧騒が嘘のように遠のき、幾重にも茂る楠や欅の葉が深い木陰を作る。熱風は樹々のフィルターを通ることで、かすかに土と若葉の匂いを含んだ清涼な風へと変わっていた。
「わ……本当に、全然空気が違う」
まゆみが首元の手ぬぐいで汗を拭いながら、木漏れ日の差し込む参道を見上げた。
頭上には、赤、青、緑、透明と色とりどりの江戸風鈴がずらりと吊るされた「つれそひ風鈴回廊」が広がっている。初秋の気配をわずかに含んだ気まぐれな夏の微風が吹き抜けるたび、無数のガラスが澄んだ高音を一斉に鳴らし、木々の間を抜けていく。
「チリン、チリリ……」
「すごい……まるで風が音になって見えるみたい」
「まゆみさん、立ち止まってないでアングル探そう。光は今、南西から斜めに落ちてる。風鈴の短冊が揺れる瞬間と、奥にある本殿の銅板葺きの屋根を重ねたい」
近藤は首から提げた一眼レフのファインダーに右目を押し当てた。マニュアルモードに切り替え、シャッタースピードとF値を微調整する。指先がわずかに震える。
(蒼井さんなら、どう切り取る……? チーコさんなら、どこに光を置く……?)
「近藤君、肩の力抜いて」
ファインダーの端から、まゆみの真剣な横顔が見えた。
「蒼井さんの真似をしなくていいんだよ。私たちは私たちの目で見て、感じたものを撮るの。ケロさんも言ってたでしょ。『自分の足で歩いて、自分の心で感じたことを言葉にしなさい』って」
その言葉に、近藤の胸のつかえが少しだけ軽くなった。
「……そうだな。よし、一枚行くよ」
カシャ、と静寂を切り裂くような乾いたシャッター音が響く。
液晶画面に浮かび上がったのは、揺れる短冊の残像と、木漏れ日を浴びて淡い金色に輝く風鈴、そして奥に佇む厳かな拝殿の姿だった。決して完璧な構図ではないかもしれない。だが、そこには七月の風の冷たさと、二人が息を呑んだ瞬間の体温が確かに写り込んでいた。
手水舎で柄杓を取り、冷たい水で両手と口を清める。冷涼な水が指先を伝う感触に、張り詰めていた神経が澄み渡っていくようだった。
二人は拝殿の前に立ち、賽銭を落として深く二礼、二拍手、そしてもう一度深く一礼を捧げた。
祀られているのは、乃木希典命と、その妻である静子命。
目を閉じると、静寂の中で風鈴の音と、遠くで鳴く油蝉の声だけが重なり合って聞こえてくる。
「ねえ、近藤君」
拝殿を後にしたまゆみが、授与所の前に並べられた桐箱を眺めながら静かに切り出した。
そこには、新郎の黒紋付羽織袴と新婦の白無垢をモチーフにした『よりそひ守』と、年月を重ねた夫婦がこれからも共に歩めるようにと願う、落ち着いた織り柄の『つれそひ守』が並んでいた。
「乃木将軍って、日露戦争の英雄とか、明治天皇に殉じた厳しい軍人っていうイメージがどうしても先行しがちじゃない? 私もここに来るまでは、どこか近寄りがたい偉人のお社なんだと思ってた」
「ああ。僕もリサーチする前はそう思ってたよ」
近藤はバインダーに挟んだ取材メモの束をめくった。そこには、事前に国会図書館や郷土資料館のデータを当たって書き殴った細かな文字が並んでいる。
「でも、調べれば調べるほど、違う一面が見えてくるんだ。将軍は学習院の院長を務めていた頃、生徒たちと同じ寄宿舎で寝起きして、身の回りのことは全部自分でやっていた。給与の多くを生活に困っている学生や戦没者の遺族に匿名で送り続けて、自分は継ぎ当てだらけの服を着ていたらしい」
「自分のためじゃなくて、誰かのために徹底して誠実だったんだね」
「そう。そして、その厳しくも不器用な生き方を、誰よりも深く理解して、同じ目線で支え続けたのが妻の静子夫人だった。夫人が家庭をしっかりと守り、同じように質素を旨としていたからこそ、将軍は一歩もブレずに自分の信念を貫けたんだと思う」
二人は境内の奥、木々のトンネルを抜けて旧乃木邸の敷地へと足を運んだ。
目の前に現れたのは、質素な板張りの木造二階建ての邸宅と、その隣に佇む赤煉瓦造りの頑丈な馬小屋だった。
「これ、本当に当時の陸軍大将の家屋なの……?」
まゆみが息を呑んで呟く。
周囲の赤坂や六本木の高層ビル群を見慣れた目には、その木造建築はあまりにも簡素で、無防備なほど小さく見えた。窓枠の木は年月を経て黒ずみ、屋根瓦も飾り気のない平瓦が整然と並んでいるだけだ。
だが、その隣にある愛馬の厩舎だけは、分厚い赤煉瓦でしっかりと組み上げられ、採光用の窓まで丁寧に作られている。
「佐久間さんが言ってた言葉を思い出すよ」
近藤が煉瓦の壁にそっと視線を向けながら呟いた。
「『建築はその人間の魂の形をそのまま残す』って。自分の寝床は雨風を凌ぐだけの木造で十分だが、戦地を共に駆け抜けた馬には最高の環境を用意する。言葉でいくら立派なことを言っても嘘はつけるけど、この建物に残された痕跡には、一切の嘘がない」
「うん……すごく、胸に迫るものがあるね」
まゆみはスマートフォンの録音アプリを起動し、マイクを握りしめた。
「乃木神社に流れている空気は、ただの静けさじゃない。不器用なまでに真っ直ぐ生きた人と、その背中を愛し抜いた人の『誠実さの記憶』が、百年の時を超えて今もこの杜を満たしている――」
言葉を紡ぐまゆみの瞳には、迷いが消えていた。
「よし、境内摂社の正松神社と赤坂王子稲荷神社も回ろう。佐久間さんなら、吉田松陰先生と乃木将軍の思想的な繋がりも絶対に記事に入れろって言うはずだ」
「赤坂王子稲荷の狐さんたちも、静子さんが大切にお参りしてたんだよね。写真、いっぱい撮らなきゃ!」
二人は再びカメラとノートを手に、西日が傾き始めた境内を駆け出した。
未熟で、先輩たちの足元にも及ばないかもしれない。それでも、自分たちの足で歩き、自分たちの心で触れた神社の体温を、余すことなく届けるために。
夕暮れの乃木坂に響く風鈴の音は、歩み始めたばかりの二人の背中を、優しく押し出しているようだった。

