【佐久間&ヤヨイ 取材本編】
『黄金の古木が抱く江戸の小堂と、布袋尊の寛容——初冬の橋場に息づく祈りの原風景』
第一章:石浜の水辺から台東区へ——通り沿いに佇む隠れ里のような参道
十二月初旬の午前十一時過ぎ。石浜神社での冬晴れに恵まれた参拝を終えた二人は、隅田川沿いの開放的な河川敷を背にして、再び台東区の境界へと向かって穏やかに歩みを進めていた。 南千住の広々とした空から、昔ながらの長屋や落ち着いた住宅が軒を連ねる橋場の町並みへ。通りを一歩進むごとに、都会のざわめきが静かな住宅街の生活音へと溶け込んでいく。 濃紺の地に雪輪模様をあしらった冬の着物に身を包んだヤヨイは、丸眼鏡の位置を指先でそっと直しながら、通りに面した一角で足を止めて周囲を見渡した。
「佐久間君、このあたりのはずだけれど……。通り沿いの左手に広めの駐車場があって、そのすぐ横に奥へと続く細い参道が見えるわ。注意して見ていないと、思わず見落としてしまいそうなほど、街並みの中に自然に溶け込んでいるのね」
木々模様のシックな冬仕立てのジャケットを端正に着こなした佐久間学は、ヤヨイの手荷物を優しく預かり、参道の先へ穏やかな眼差しを向けた。
「ええ。通りからは一瞬、どこにお寺があるのか迷うほど控えめな佇まいですが、この奥まった参道を少し歩いた先にこそ、千二百有余年の歴史を秘めた『橋場不動尊』が鎮座しています。奈良時代の天平宝字四年(七六〇年)、寂昇上人によって開創された天台宗の古刹ですよ」
「千二百年も……! 大きな門構えで威圧するのではなく、こうして地域の暮らしのすぐ隣に寄り添うように佇んでいる姿に、かえって深い温もりを感じるわね」
二人は通りから参道へと足を踏み入れた。敷石を踏みしめて数歩進むと、周囲の空気がすうっと澄み渡り、まるで結界をくぐったかのような清らかな静寂が二人を迎え入れた。
第二章:樹齢七百年の大銀杏と、奇跡の江戸木造本堂
参道を抜けて境内へ入った瞬間、ヤヨイは思わず感嘆の息を呑み、頭上を仰ぎ見た。 初冬の澄み切った青空を背景に、圧倒的な存在感を放つ巨大なイチョウの古木が、枝いっぱいに黄金色の葉を茂らせて聳え立っていた。初冬の柔らかな風が吹き抜けるたび、ハラハラと黄金の葉が舞い落ち、足元一面を鮮やかな黄色の絨毯へと染め上げていく。
「まあ……! なんて見事な大銀杏かしら! 幹の太さも枝の広がりも、境内全体を優しく包み込んでいるようだわ……!」
「台東区の天然記念物に指定されている、樹齢約七百年の大銀杏です。かつて隅田川を行き交う渡し船の船頭たちにとって、この巨木こそが橋場の位置を知る航路の大切な目印(ランドマーク)でした。そして何より、大正の関東大震災や東京大空襲の猛火を生き抜いた、不屈の生命力を宿す奇跡の木でもあります」
「震災も戦火も潜り抜けて、ずっとこの場所で人々を見守ってきたのね……」
ヤヨイは愛用の取材ノートを開き、万年筆を走らせながら境内の中央へと視線を移した。 そこに建つのは、弘化二年(一八四五年)に再建されたという木造の本堂。決して巨大ではないが、反りの美しい瓦屋根と飴色に磨かれた木肌が、江戸の職人の確かな技と粋を今に伝えている。
「佐久間君、この本堂も……江戸時代末期の建物がそのまま残っているのね」
「ええ。浅草一帯の寺社がことごとく焼失する中、この弘化年間の本堂と大銀杏は奇跡的に残りました。本尊の不動明王は、相模大山寺の不動尊と一本の霊木から彫り分けられた同木同作の秘仏。厳しい火炎で悪縁や災いを断ち切るお不動様が、このお堂そのものを守り抜いてきたのかもしれません」
二人は本堂前で静かに手を合わせ、護摩焚きの芳しいお香の香りに包まれながら、深く頭を垂れた。
第三章:布袋尊の大きなお腹と、すべてを包み込む言葉の力
本堂の奥へと視線を向けたヤヨイは、そこに安置された浅草名所七福神の「布袋尊」の柔和なお姿に、ふっと表情をほころばせた。 大きなお腹を大胆に突き出し、満面に屈託のない笑顔を浮かべた布袋尊。肩に背負うはずの大きな布袋が見当たらず、まるでその豊かなお腹そのものが、人々の悩みや福徳をまるごと包み込む袋になっているかのような、独特で愛らしい造形をしている。
「ふふっ……佐久間君、見て。布袋尊様のこの福々しくて大きなお腹! 見ているだけで、胸のつかえがすうっと取れて、思わず笑顔になってしまうわね」
「布袋尊の神徳は『清廉度量(せいれんどりょう)』――清らかで、海のように広い心です。唐の時代の禅僧であり、どんな時も笑顔を絶やさず、人々の喜怒哀楽をすべて受け止めて歩んだ弥勒菩薩の化身。この橋場不動尊の飾らない素朴な佇まいは、まさに布袋尊の大きな度量そのものですね」
「清らかで、広い心……」
ヤヨイはノートに万年筆を走らせながら、静かに呟いた。
「時代がどれほど移り変わっても、地域の人々が朝夕にふらりと立ち寄り、手を合わせていく……。観光地の華やかさとは一味違う、この江戸の長屋の路地裏のような温もりこそが、本当の信仰の原風景なのかもしれないわね」
佐久間はヤヨイの澄んだ眼差しを見つめ、低く温かな声で寄り添った。
「ええ。日々の生活の中で傷ついたり迷ったりした人々を、この大銀杏と布袋尊様がそっと包み込んできたように……ヤヨイさんの紡ぐ文章もまた、読む人の心を優しく受け止める大きな器であってほしいと思います。あなたのその温かな視点を、僕がずっと守り続けます」
「ありがとう、佐久間君。あなたが隣で支えてくれるから、私はどんな小さな町の温もりも見落とさずに言葉にできるのね」
初冬の柔らかな日差しが黄金色の大銀杏を通して降り注ぎ、弘化の本堂と二人の足元を温かく照らし出していた。 二人は寺務所で布袋尊の御朱印と大銀杏の身代わり守を大切に受け取り、地域に深く根ざした古刹の余韻を胸に、次なる巡礼地へと静かに歩みを進めていった。

