~江戸時代のチーコと蒼井・参拝短編物語~
神田の朝は、音から目を覚ます。
店先の板戸を外す音。
天秤棒を肩に掛けた魚売りの声。
井戸端で水桶を置く音。
遠くでは、どこかの寺の鐘が、まだ朝靄の残る江戸の町をゆっくりと渡っていた。
そんな町の一角に、乾物や紙、諸国から届いた小間物を扱う商家があった。
屋号を「三ツ葉屋」という。
その店先で、ひとりの娘が背伸びをしながら、暖簾を掛けようとしていた。
名は、ちーこ。二十五歳になったばかりである。
「あと、ほんの少し……」踏み台の上で、ちーこは腕をいっぱいに伸ばした。
指先は暖簾を掛ける釘に届きそうで、届かない。
「お嬢さん、代わりましょうか」奉公人の松吉が声をかけたが、ちーこは振り返らなかった。
「大丈夫よ。こんなもの、わたしひとりで――」言い終わらないうちに、踏み台がぐらりと傾いた。
「あっ」
ちーこの身体が宙に浮く。
松吉が声を上げるより早く、店の前を通りかかった男が腕を伸ばした。
ちーこは倒れず、その男の胸元へすっぽりと収まった。
「朝から、ずいぶん派手な出迎えだな」
低く穏やかな声がした。
ちーこが顔を上げると、そこには蒼井恒一郎がいた。
紺の着流しに袴をつけ、腰には大小を差している。見回りへ向かう途中なのだろう。
町役人を務める蒼井家の長男で、年は二十八。
剣術道場を開きながら、日々、江戸の町の見回り役も務めていた。
ちーこの許嫁でもある。
「恒一郎さま」
「怪我はないか」
「ありません。これは、その……踏み台の置き方が悪かっただけです」
「昨日は桶につまずき、一昨日は大根の籠をひっくり返したと聞いた」
「誰がそんなことを」
店の奥で松吉がそっと顔をそらした。
ちーこは恒一郎の胸を押して離れると、乱れた髪を手早く直した。
「朝から人の失敗ばかり数えないでくださいませ」
「数えたくて数えているわけではない。町を歩けば、お前の失敗が向こうから耳へ入ってくる」
「まあ」恒一郎は落ちた暖簾を拾い、いとも簡単に釘へ掛けた。
店先に三ツ葉屋の屋号が広がる。
通りを歩いていた町人たちは、また始まったというように笑っている。
三ツ葉屋の勝気な娘と、その娘に振り回される蒼井家の若旦那。
二人のやり取りは、この辺りでは朝の名物になりつつあった。
「ところで恒一郎さま」ちーこは急に声を落とした。
「お願いがございます」
「その顔で頼まれると、嫌な予感しかしない」
「太田姫稲荷さまへ、一緒に参ってくださいませ」恒一郎の表情が変わった。
「誰か具合でも悪いのか」
「お千代ちゃんです」
お千代は、三ツ葉屋へ時折手伝いに来る髪結いの娘で、まだ十歳だった。
数日前から熱を出し、床についている。
町医者は疲れからくる熱だろうと言ったものの、母親はひどく心配していた。
昨夜、ちーこは見舞いに行き、汗に濡れた小さな手を握って帰ってきたのである。
「太田姫さまは、病に苦しむ娘をお救いになったのでしょう」
「ああ。そう伝えられている」
太田姫稲荷は、太田道灌の娘が重い疱瘡を患った折、病気平癒を願って祀られた稲荷であると、人々の間で語られていた。
病を退ける神として、子どもの無事を願う親たちや、家族の快復を願う町人たちが参詣する。
「わたし、お千代ちゃんのためにお願いしたいのです」
ちーこの声には、いつもの勝気さがなかった。
恒一郎は彼女の横顔を見た。
ちーこは騒がしく、慌て者で、何かを始めると周囲を巻き込まずにはいられない。
けれど、誰かが苦しんでいると聞けば、自分のことのように胸を痛める娘だった。
「分かった」恒一郎はうなずいた。
「見回りを終えたら迎えに来る」
「今からではいけませんか」
「これから役目だ」
「太田姫さまは、お待ちになってくださいます」
「見回り先の町人は待たせられない」
「では、わたしが恒一郎さまの見回りについてまいります」
「なぜそうなる」
「役目が終われば、そのまま参れます」
「ならぬ」
「邪魔はいたしません」
「お前がいるだけで、何かが起きる」
「失礼な」ちーこは頬を膨らませた。
やがて恒一郎が根負けするまで、それほど時間はかからなかった。
二人が並んで歩き出すと、向かいの煙草屋の主人が声をかけた。
「蒼井の若旦那、今日も三ツ葉屋のお嬢さんに引かれておりますな」
「引かれているのではない。見張っているのだ」
恒一郎が答えると、ちーこがすぐに言い返した。
「どちらでも同じことでございます」
町人たちの笑い声が、朝の通りへ広がった。
