十一月初旬の世田谷は、抜けるような秋晴れの高い青空が広がり、からりと乾いた心地よい風が街路樹の梢をサヤサヤと揺らしながら吹き抜けていた。
下馬エリアの西澄寺、駒繁神社、世田谷観音という三つの名刹を丁寧に巡り終えた二人は、三軒茶屋駅へと戻り、東急世田谷線の乗り場へと向かった。ホームに滑り込んできたのは、街並みに溶け込む2両編成の可愛らしい路面電車。ガタゴトと心地よい揺れに身を任せ、住宅街の間を縫うように走ること数分、電車は「宮の坂駅」のホームへと滑り込んだ。
チンチン、と長閑な発車ベルの音が澄んだ秋空に吸い込まれていく。 電車を降りて改札を抜けると、まさに駅のすぐ目の前、十一月の柔らかな木漏れ日を浴びて「世田谷八幡宮」の大鳥居と鬱蒼とした鎮守の杜が堂々たる威容で二人を迎えた。
「近藤君、見て! 駅のホームを降りたら本当に目の前が参道なんだね! 世田谷線のレトロな音と、この深い木々の静けさがすごく合ってて素敵!」
まゆみは淡いキャメル色のニットカーディガンの裾を整え、カメラバッグのストラップを肩に掛け直して目を輝かせた。手元の取材バインダーには、下馬エリアで集めた手応え十分のメモと写真のリストが並んでいる。
「世田谷八幡宮は、世田谷郷の総鎮守なんだ。平安時代後期の寛治五年(1091年)、源義家が後三年の役の帰途に宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられている。その後、室町時代に世田谷城主となった吉良頼康が社殿を再建して、城の北西を守る要として崇敬した由緒ある古社だよ」
近藤正二は首から提げた一眼レフのレンズキャップを外し、参道の光と影のバランスを手早く確認した。乃木坂や下馬での連戦を経て、構図を決める視線にはプロらしい迷いのなさが漂っている。
大鳥居をくぐり、格式高い石畳の参道へ足を踏み入れると、まず左手に現れたのは、木漏れ日を浴びてきらきらと輝く湧水池と朱塗りの神橋だった。池の中央には弁天様(市杵島姫命)を祀る「厳島神社」の小祠が鎮座し、色づいたモミジの赤や銀杏の黄金色が水面に鮮やかに映り込んでいる。優雅に泳ぐ錦鯉やカルガモの波紋が、秋の光を反射して揺れていた。
「水面に映る紅葉が本当に綺麗……。あ、近藤君、あそこを見て!」
まゆみが参道の右手を指差して駆け寄った。 木立に囲まれたその場所に広がっていたのは、すり鉢状の観覧席に囲まれた、屋根付きの立派で大きな「土俵」だった。
「わあ……! 本当に境内にこんなに大きな本格的な土俵があるんだ! テレビで見る本物の相撲場みたい!」
まゆみは円形に美しく掃き清められた土俵を見つめ、驚きの声をあげた。
「ここは江戸時代、渋谷氷川神社や大井鹿嶋神社と並んで『江戸郊外三大相撲』の一つに数えられた場所なんだよ。農民たちが神前で力比べをして、その年の豊作を占ったり神様に感謝を捧げたりした奉納相撲の舞台だ。今でも毎年九月の秋季例大祭では、東京農業大学の相撲部による本格的な奉納相撲が行われているんだ」
「なるほど……! 武士の武勇だけじゃなくて、地域の人たちが汗を流して神様と繋がってきた場所なんだね。土俵の丸い砂を見ているだけで、昔の歓声や力強い熱気が伝わってくるみたい」
近藤は腰を落とし、重厚な土俵の屋根と、周囲を取り囲む秋色に染まったケヤキの巨木が重なるローアングルでファインダーを覗き込んだ。
カシャ、と乾いたシャッター音が静かな境内に響く。
土俵の脇には、かつての若者たちが持ち上げて力比べをしたという江戸時代の「力石」がいくつも並んでおり、この地に息づく庶民のエネルギーを物語っていた。
石段を上がって社殿の前へ進むと、境内は十一月初旬ならではの温かな賑わいに包まれていた。 千歳飴の長い袋を嬉しそうに引きずる晴れ着姿の小さな女の子や、凛々しい羽織袴に身を包んで誇らしげに歩く男の子。その愛らしい姿を笑顔で見守りながら、スマートフォンやカメラを構える家族連れの姿があちこちに見られた。
「駒繁神社でもそうだったけど、ここも七五三のご家族がたくさんいらっしゃるね。みんな晴れやかで、すごく幸せそう!」
まゆみが目を細めて微笑むと、近藤もファインダー越しに家族の温かな光景を見つめて頷いた。
「八幡大神は武運や厄除けの神様であると同時に、神功皇后が祀られていることから安産や子育ての守護神としても崇敬されているんだ。昔の力士たちの力強さと、今を生きる子どもたちの健やかな成長を願う親の祈りが、この同じ杜で受け継がれているんだね」
二人は重厚な木造社殿の前へ進み、深く二礼、二拍手、そしてもう一度深く一礼。世田谷の地を千年にわたって見守り続ける八幡大神に、沿線巡りの無事と読者の心に届く記事の完成を祈願した。
参拝を終えて授与所へ向かった二人は、奉納された絵馬の掛け所を見て思わず顔をほころばせた。
「近藤君、見て! この絵馬、お相撲さんのイラストが描いてある!」
絵馬には、きゅっと口を結んでまわしを締めた、なんとも愛らしくデフォルメされたかわいい力士の絵柄が描かれていた。七五三の子どもたちの健やかな成長を願う言葉や、勝負運・合格祈願のメッセージがびっしりと書き込まれている。
「ふふっ、すごく愛嬌があって可愛いね。力強さと親しみやすさが同居していて、世田谷八幡宮らしさがぎゅっと詰まってる」
「そうだね。勝負の厳しさだけじゃなくて、誰もが笑顔になれる温かさがある。このかわいい力士の絵馬と、立派な土俵の対比もぜひ記事で紹介しよう」
二人は社務所で世田谷郷総鎮守の威厳ある御朱印と、勇壮な「勝守」を受けた。
「近藤君、下馬の静寂と祈りから世田谷線の電車に乗って、この世田谷八幡宮の力強い土俵と家族の笑顔に出会えて、物語のスケールがぐっと広がった気がするよ!」
「ああ。世田谷城の歴史と人々の暮らしの温もりが、見事に交差している場所だったね。……よし、この勢いで次はすぐ隣の豪徳寺へ向かおう。招き猫と井伊家の歴史が待っているよ!」
「うん! 秋の世田谷線めぐり、後半戦も全力で行こう!」
色づく杜を吹き抜ける清々しい秋風と世田谷線の長閑な走行音を背に受けながら、二人は充実した確かな手応えを胸に、次なる目的地へと軽やかな足取りで歩き出していった。

