第7話:月の松のフレームと、譲れないプロ意識
「清水観音堂の特集記事、公開直後からアクセスの伸びが過去最高を更新しました!」
オフィスの真ん中で、まゆみが弾けるような笑顔で声を上げた。モニターに表示されたリアルタイムの閲覧数は、前回の記録をさらに大きく塗り替えている。Aチームの瑞々しい現地レポートと、Bチームが紡いだ「子育て観音」や歴史の重みが、読者の心を強く捉えた証拠だった。
「おお、すごいじゃないか。ふたりとも、素晴らしいチームワークだったな」 佐久間がコーヒーマグを片手に満足げに頷き、やよいも「本当によく頑張ったわね」と優しく微笑む。
その賑やかなオフィスの片隅で、チーコは公開されたばかりの特集ページ、特にあの「月の松」の円の中に不忍池の辯天堂が収まるカットを、じっと真剣な眼差しで見つめていた。
(……くうっ、ずるい。すごく綺麗な構図だけど……! あそこの月の松の枝ぶり、もっとこう、夕暮れの斜光を計算に入れて完璧な対比で切り取ったら、もっと息を呑むような圧倒的な絵になるのに……!)
プロのカメラマンとしての血が、どうしようもなく騒ぎ出す。 チーコはガタッと椅子を引いて立ち上がると、一直線にデスクの向こう側に座る蒼井のほうへ歩いていった。
「……あの、チーフ」 「ん? どうした、チーコ。次のサイクルの企画書なら、まだ締め切りには――」 「そうじゃなくて!」
チーコは蒼井のデスクに両手をドンとつき、至近距離でその顔を覗き込んだ。突然の接近に、蒼井は「お、おい……またかよ」とわずかに体を引く。
「清水観音堂の『月の松』と清水の舞台、あのロケーション! Aチームの写真も良かったけど、私の新しい単焦点レンズのフィルターを通したら、絶対に誰も見たことのない最高の瞬間が切り取れるんです!」 「いや、それはすでに特集として完璧にまとまって公開も……」 「ダメです! プロのカメラマンとして、あの月の松のフレームワークは私の手で一度本気で捉え直さなきゃ、今夜眠れなくなっちゃう!」
熱っぽくまくし立てるチーコに、蒼井は呆れたような、しかしどこか甘い溜息をついた。 「お前の写真に対する執念はよく分かったけどな、今回はすでに公式の連載として完了してるんだぞ。今さら何処の取材だって言うんだ」
「公式じゃなくていいです! プライベートです!」 「プライベート?」 「そうです! 休日返上で、私服で、完全に個人の視察としてリサーチに行ってきます! ……あ、でも、不忍池周辺の歴史的建築を一人で歩くのは寂しいから、チーフ、私服で私のリサーチに付き合ってください!」
「なんだと……?」 「ほら、チーフだって、上野最古の建造物の空気感を直接肌で感じておくべきです! ロケハン兼、大事なお参りですから!」
「いや、絶対ロケハンって言う名のただのデートだろ、それ……」 蒼井が鋭くツッコむも、チーコはふいっとわざとらしく顔をそらした。 「聞こえませーん! 明日の日曜日、朝十時に上野駅の公園口ですからね! 遅刻したら私のカメラバッグをチーフの私物入れに一生封印しますから!」
「おまっ、脅しが斜め上だな……!」
半ば強引に、かつ最高に魅力的な笑顔で迫るチーコを前に、蒼井は観念したように頭をかいた。しかし、その耳たぶがうっすらと赤くなっているのを、チーコは逃さず見逃さない。
(よし、今回も完全勝利……!)
心の中でガッツポーズをしたチーコは、「じゃ、明日の準備してきまーす!」と軽やかな足取りで自分のデスクへと戻っていく。 その背中を見送りながら、蒼井は小さく呻き声を漏らし、天を仰いだ。
「……まったく、いつから俺はあいつのペースに完全にハマるようになったんだか……」
少し離れた席からそのやり取りの一部始終を見ていた佐久間とやよいは、顔を見合わせてクスッと上品に笑い合うのだった。
第8話:月の松のフレームと、急接近の距離
日曜日、午前十時のJR上野駅・公園口。 待ち合わせ場所に立っていた蒼井は、約束の時間ぴったりに姿を現したチーコを見て、思いついた言葉をわずかに飲み込んだ。
いつもは動きやすさを優先したワークスタイルが多いチーコだが、今日のプライベートでは、上品なネイビーのフレアワンピースに、足元は歩きやすいローヒール。首から下げられた愛用のカメラが、かえってそのお洒落な装いを引き立てている。
「お待たせしました、チーフ!」 少し小走りで近づいてきたチーコが、満面の笑みを浮かべる。そのいつもより少し大人びた雰囲気に、蒼井はわずかに視線を泳がせた。
「……あぁ、待ってない。その、なんだ……似合ってるな、その格好」 「ほんとですか? 清水観音堂の景色に馴染むように、ちょっとだけ気合入れておめかししてきました!」 照れくさそうに微笑むチーコに、蒼井は「行くぞ」とわざとそっけなく言い残し、歩き出した。その後を、チーコは嬉しそうに軽やかな足取りでついていく。
上野恩賜公園の木立を抜け、西郷像の脇を通って清水観音堂へと続く階段を上る。 朱塗りの美しいお堂が見えてくると、チーコはさっそく首から下げたカメラを構えた。
「うわあ……やっぱり、この舞台造りの佇まい、すごく絵になりますね」 「ああ。上野の山に残る最古の建造物だけあって、独特の厳かさがある」
ふたりは木の温もりを感じる舞台へと上がり、欄干から不忍池の方向を見渡した。風が心地よく吹き抜け、水面がキラキラと光っている。
「さて、本命はあっちですね……!」 チーコが目指したのは、お堂の脇から見事な円を描く「月の松」だった。 浮世絵にも描かれたその松の枝ぶりは、角度によって目の前の不忍池や辯天堂を美しく切り取る最高のフレームになっている。
「チーフ、ちょっとそこの欄干のあたりに立ってみてください!」 「え? 俺か?」 「そう! 月の松の輪っかの向こうに、チーフの姿を重ねて撮りたいんです」
言われるがままに月の松の近くへ歩み寄る蒼井。 チーコはファインダーを覗き込み、理想の構図を探そうと一歩、また一歩と蒼井へと近づいていく。
「ん〜、もう少し右……じゃなくて、左かな。あ、そこ、動かないでくださいね!」 熱中するあまり、チーコはバランスを崩してよろめいた。 「っと……危ないな」
慌てて手を伸ばした蒼井の腕の中に、チーコがふわりと飛び込む形になる。 至近距離でぶつかった瞬間、シャンプーの甘い香りと、温かな体温が蒼井の胸に飛び込んできた。
「あ……ご、ごめんなさい、チーフ……」 見上げたチーコの大きな瞳が、すぐ目の前で揺れている。蒼井は支えた腕をどう動かすべきか迷いながら、ドクンと急加速する自分の心音に冷や汗をかいた。
「い、いや……怪我はなかったか? 足元が滑るから、あまり夢中になりすぎるなよ」 「う、うん……ありがとうございます」
耳たぶまで真っ赤に染めて小さく頷くチーコの姿に、蒼井はこれ以上ない動揺を覚えた。 周囲の観光客の視線に気づき、慌てて少しだけ距離を取るふたり。しかし、一度縮まった心の距離は、そう簡単には元に戻らなかった。
「……こ、こうなったら、私もしっかり良い写真を撮らなきゃ!」 照れ隠しのようにカメラを構え直すチーコの横顔を見つめながら、蒼井はポケットの中でそっと自分の胸を押さえ、大きく息を吐き出すのだった。
第9話:水辺のテラスと、零れる本音
清水観音堂の舞台を後にし、ふたりは不忍池へと続く緩やかな坂道を並んで下っていった。 秋の夕暮れが近づき、空のグラデーションが藍色とオレンジ色に染まり始めている。
「ふう……緊張したぁ」 チーコが首から下げたカメラのストラップをキュッと握りしめながら、小さな声で呟いた。 「緊張って……お前が急に突っ込んできたんだろ」 蒼井はわざとやれやれといった風に返したが、その耳たぶはまだほんのりと赤みを帯びている。
「だって、月の松のフレームがあまりにも綺麗だったから……つい夢中になっちゃって。でも、おかげで最高の写真が撮れました!」 チーコがパッと笑顔を咲かせると、蒼井はそれ以上何も言えず、小さく鼻で笑うしかなかった。
「で、このあとはどうするんだ。そろそろお腹も空いた頃だろ」 「もちろん! 池のほとりにあるオープンカフェで、温かいカフェラテとケーキをいただきます。もちろん、チーフの奢りで!」 「また俺の奢りかよ……まあいい、付き添いの褒美だ。行こう」
ふたりが足を向けたのは、不忍池のほとりに佇むおしゃれなテラスカフェだった。 木製のテラス席に腰を下ろすと、目の前には夕日にきらめく水面と、遠くに見える辯天堂のシルエットが広がっている。心地よい水上の風が、火照った頬を優しく撫でていった。
運ばれてきたのは、濃厚なガトーショコラと、綺麗なラテアートが施された温かいカフェラテだ。
「わあ、美味しそう……! いただきます!」 チーコはフォークでケーキを小さく切り分け、一口頬張ると「ん〜っ!」と幸せそうに目を細めた。「チョコレートが濃厚で、歩き疲れた体に染みます……。チーフも一口、どうぞ?」
自然な流れで差し出されたフォークを前に、蒼井は一瞬ためらったが、周囲の穏やかな水辺の雰囲気に押されて素直に口を開けた。ビターな甘さが口いっぱいに広がる。
「……確かに、美味いな」 「でしょ? こういうところでゆっくり甘いものを食べるの、すごく贅沢ですよね」
チーコはマグカップを両手で包み込みながら、トロンとした目で目の前の水面を眺めた。それから、ゆっくりと視線を蒼井に戻す。
「……私、このチームに入って、本当に良かったって思ってます」 不意に出たその言葉に、蒼井は手を止めた。
「最初は、ただ先輩に引き抜かれたから何となく……って思ってたけど。こうして上野のあちこちを歩いて、新しい景色を見つけて、記事になって、読者のみんなに喜んでもらえて……。何より、こうしてチーフと一緒に……」
チーコは言葉を濁し、マグカップのふちを指先でなぞった。その頬が、夕日のせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっている。
「……一緒に、色んな景色を見るのが、すごく楽しいです。私にとって、この時間は何よりも特別なものになってます」
真っ直ぐに向けられた瞳に、蒼井の胸の奥が熱く締め付けられた。冷戦沈着で仕事ができるはずのチーフプロデューサーは、こういう不意打ちの素直な言葉に対して、驚くほど無力だった。
「……俺もだ」 気づけば、絞り出すような声が口をついて出ていた。
「え……?」 「俺にとっても……お前とこうして現場を歩く時間は、悪くない……いや、かけがえのない時間だ」
少しだけ照れくさそうに視線を逸らした蒼井の言葉に、チーコは息を呑んだ後、これまでにないほど柔らかく、愛おしそうな笑みを浮かべた。
そのとき――。 静かなテラスの空気を切り裂くように、蒼井のポケットから鋭い通知音が鳴り響いた。
「っ……!」 現実へと引き戻された蒼井が慌ててスマートフォンを取り出すと、画面には容赦なくチャットのアプリが開いていた。送り主はもちろん、あのバックオフィスのオーナーだ。
『チーフ、不忍池のテラスカフェにおける公開告白未遂、大変甘酸っぱく観測させてもらった。ガトーショコラの濃厚さに負けない甘い空気だったな』
「……また見てやがるあの野郎……!」 蒼井が頭を抱えると、チーコがのぞき込んできた。「あ、オーナーからですか?」
画面にはさらに追撃のメッセージが光っている。
『なお、チーフのプライベート視察に対する労いとして、カフェのガトーショコラとラテの領収書データ、こちらも当然のごとく全額却下とする。自腹で愛を深めるように』
「全くだ……完全に手の平の上だな、俺たちは」 頭を抱える蒼井を見て、チーコはクスッと声を上げて笑った。
「ふふっ、オーナーさん、本当に良いタイミングで邪魔してくれますね。でも……」 チーコはカップを置くと、立ち上がり、夕暮れから夜へと移り変わる上野の街を見渡した。
「今日の分の写真代とケーキのお礼は、また今度、ちゃんと仕事の成果で返しますからね、チーフ!」
夜風が心地よく吹き抜ける中、ふたりの距離はもう、以前の他人行儀な先輩・後輩には戻れないほどしっかりと縮まっていたのだった。
