三月中旬の武蔵野台地は、肌を刺すような冬の冷たさが和らぎ、春の訪れを告げる柔らかな光に満たされていた。
京王線府中駅の南口改札を抜けると、駅前のデッキから眼下へと続く「馬場大門欅並木」が、まっすぐに大國魂神社の杜へと視線を導いている。国の天然記念物にも指定されている約五百メートルの参道には、数百年の風雪を耐え抜いてきた巨木たちが整然と並び、その梢にはぷっくりと膨らんだ若芽が早春の日差しを浴びて淡く輝いていた。
並木道を行き交う人々の姿は、まさにこの季節の活気そのものだった。春休みを迎えて大きなキャリーケースを転がしながら、楽しげに卒業旅行の計画を語り合う大学生たちのグループ。真新しいリクルートスーツや制服の入った紙袋を大事そうに抱え、新生活の準備に足を早める親子連れ。年度の締めくくりと新しい始まりが交差する三月の街並みには、どこか誇らしげで、少しだけ緊張を孕んだ前向きな空気が漂っている。
「近藤君、見て! 欅の枝の隙間から差し込む光、すっごく澄んでて綺麗!」
まゆみは淡いアイボリーのトレンチコートの裾を軽快に揺らしながら、参道の真ん中で立ち止まって空を仰いだ。首から下げた一眼レフのストラップを両手でしっかりと握る。乃木神社、牛嶋神社と現場を重ねてきたことで、取材先での立ち振る舞いや機材の扱いには、自然な落ち着きと頼もしさが備わりつつあった。
「まゆみさん、車道からの自転車に気をつけて。……でも本当に、この抜け感はすごいな。東京の市街地でこれだけの巨木並木が真っ直ぐ神社に繋がっている場所は他にないよ」
近藤正二は首から提げたカメラのレンズフードを直し、露出ダイヤルを小気味よくカチカチと合わせた。手元のバインダーには、事前に佐久間から渡された武蔵国の古代資料と、府中市の郷土史のコピーがびっしりと挟み込まれている。
「この並木は、平安時代に源頼義・義家父子が奥州平定の祈願成就の御礼として苗木千本を寄進したのが始まりで、のちに徳川家康が関ヶ原の勝祈願のお礼に馬場とともに整備・寄進したんだ。千年以上前から、戦や新しい旅立ちに向かう人々がここを通って、己の覚悟を誓ってきた場所なんだよ」
「覚悟、か……。今すれ違った学生さんたちも、これから社会に出たり、新しい街で一人暮らしを始めたりするんだよね。なんだか、この道を歩くだけで背中をすっと伸ばしてもらえる気がする」
まゆみは小さく頷き、参道の敷石を踏みしめながら大鳥居へと進んだ。
石造りの大鳥居をくぐると、駅前の喧騒がすっと遠のき、厳かな静寂が周囲を包み込んだ。 堂々たる木造建築美を誇る「随神門」、そして「中雀門」をくぐり抜けると、広大な砂利敷きの境内の向こうに、総檜造りの荘厳な拝殿がその威容を現した。
大國魂神社の創建は景行天皇四十一年(西暦111年)――実に千九百年以上の歴史を誇る古社だ。大化の改新(645年)によって武蔵国の国府がこの府中に置かれた際、国司が国内の神社を巡拝する労を省くため、武蔵国内の著名な六つの神社(一之宮・小野神社から六之宮・杉山神社まで)をこの地に合祀した。「武蔵総社・六所宮」と呼ばれる所以である。東京五社の一社にも数えられる、まさに武蔵国の心臓部とも言える聖地だ。
手水舎の冷たく澄んだ水で手と口を清め、二人は拝殿の正面へと進んだ。 主祭神は大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)。出雲の大国主神(オオクニヌシ)と同神であり、この広大な武蔵の地を開拓し、人々に農耕や医療、衣食住の知恵を授けて国を拓いた国土の守護神である。
「二礼、二拍手、一礼」
二人は息をぴったりと合わせ、深く頭を下げた。 賽銭箱に落ちた硬貨の音が境内の静寂に吸い込まれていく。顔を上げると、拝殿の銅板葺きの屋根越しに広がる抜けるような早春の青空に、境内の片隅に残る白梅の甘い香りが、風に乗ってふわりと運ばれてきた。
「ねえ、近藤君。本殿の裏手に回ってみよう。佐久間さんのメモに『御神木の大イチョウは絶対に見ておくべき』って書いてあったでしょ」
まゆみに促され、二人は本殿を囲む瑞垣の西側へと足を向けた。
瑞垣の奥、木漏れ日の中に堂々とそびえ立っていたのは、天を突くような巨躯を誇る樹齢千年の大イチョウだった。 周囲を圧倒するその幹の根元には、まるで幾重にも重なる巻貝のような巨大なコブが刻まれている。古くから、このコブを拝むと産後の肥立ちが良くなり、母乳の出が良くなると信仰されてきた、生命の再生と育みを象徴するパワースポットだ。
「千年も……ここで街の移り変わりを見つめてきたんだね」
まゆみは巨木の幹を見上げ、息を呑んだ。
「武蔵国が生まれて、鎌倉武士が駆け抜けて、江戸が開かれて、そして今の新しい時代になっても……ずっとここで、旅立つ人や悩んでいる人たちの祈りを受け止めてきたんだ」
「ああ。大國魂神社は、武蔵国に暮らす全ての人を包み込む『総社』だからね。どんな迷いも、新しい一歩を踏み出す不安も、全部まるごと受け止めてくれる圧倒的な懐の深さがあるんだと思う」
近藤はローアングルから一眼レフを構え、力強くシャッターを切った。大イチョウの荒々しくも温かい樹皮に、三月の柔らかな木漏れ日が幾筋も落ち、美しい陰影を描き出している。
続いて二人は、境内の東側、木立の間にひっそりと清流を湛える水神社の「人形(ひとがた)流し」の神事処へと向かった。
白い和紙で人の形に切り抜かれた形代(かたしろ)を受け取り、自分の名前と年齢を書き入れる。息を三度吹きかけ、体の気になる部分や胸元にそっと擦りつける。冬の間に心の中に溜め込んでしまった澱や、新年度へ向けての不安、そして「取材を成功させたい」という気負いによる焦りを、紙の人形へと託した。
「流すよ、まゆみさん」
「うん」
二人は並んで、さらさらと流れる清流の水面へと人形をそっと浮かべた。 水に乗った白い紙は、くるくると回りながら小川を滑るように下り、やがて水を含んでさらりと溶け、跡形もなく消えていった。
「あ……本当に、綺麗に溶けて流れていく」
まゆみは澄んだ水面を見つめながら、ふうっと深く息を吐き出した。
「なんだか不思議。胸の奥に引っかかってた余計な力みが、スーッと一緒に洗い流されたみたい」
「僕もだよ。いつも蒼井さんやチーコさん、佐久間さんたちの背中ばかり気にして、自分の未熟さに焦っていたけど……この清流を見ていると、背伸びしないで、今の自分たちにできる真っ直ぐな取材を精一杯届ければいいんだって思えてきたよ」
「うん! 私たちには私たちの視点があるもんね!」
二人は顔を見合わせ、晴れやかな笑顔を弾ませた。
その後、境内摂社の宮乃咩神社(みやのめじんじゃ)へ。芸能と安産の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀るこの社には、願いが水のようにスムーズに通るようにと底を抜いた「穴あき柄杓」が無数に奉納されていた。表現者としての腕を磨きたいと願う二人は、ここでも真摯に手を合わせた。
授与所に向かった二人は、大國魂神社ならではの授与品である「からす団扇」の意匠を施した厄除守と、大イチョウにちなむ「貝守」を受けた。カラスの羽ばたきが悪霊を祓い、幸福を招くという黒く凛々しいデザインが、手元で静かな存在感を放っている。
「近藤君、春休みで新しいスタートを切る学生さんや読者のみんなに、この神社の『大きな包容力と背中を押してくれる温かさ』を、余すことなく届けよう!」
「ああ。千九百年の歴史がくれる力強いエールを、僕たちの言葉と最高の写真で形にしよう」
夕暮れが近づき、欅並木には西日が黄金色の斜光を投げかけていた。 春の息吹に満ちた府中の街で、新米クリエイター二人の足取りは、迷いのない確かな自信とともに、次の一歩を刻み出していた。

