飯倉熊野権現 大江戸編 『帰る道を知る烏』

江戸時代、夕暮れ、ちーこと蒼井 短編江戸(フィクション)
江戸時代、夕暮れ、ちーこと蒼井

迷子の母親は、ほどなく見つかった。
泣きながら子どもを抱きしめる母親の姿を見て、ちーこはほっとした顔をした。

「よかった」

「お前は本当に、そういう顔をするな」恒一郎が言った。

「どういう顔です」

「人のことなのに、自分のことのように安心する顔だ」

ちーこは少し照れた。

「困っている人が無事なら、それでよいではありませんか」

「そうだな」恒一郎の声は優しかった。

二人は再び飯倉へ向かった。

やがて、熊野権現の鳥居が見えてくる。

今の町の喧騒とは少し違う静けさが、その周囲を包んでいた。
木々の間に社殿が見える。
風が葉を鳴らす。
どこかで烏が鳴いた。
ちーこは鳥居の前で足を止めた。

「ここが、飯倉の熊野さま」

「ああ」

「思ったより静かです」

「往来の近くにあっても、社の内へ入れば空気が変わるものだ」

二人は鳥居をくぐった。

ちーこは境内を見回した。
旅の安全を願う男。
家族連れ。
深く頭を下げる商人。
それぞれが自分の願いを胸に抱え、熊野の神へ祈りを捧げている。

「恒一郎さま」

「なんだ」

「八咫烏というのは、本当に三本足なのでしょうか」

「いきなりそこか」

「だって気になるではありませんか」

「神の使いとされる烏だ。人を正しい道へ導いたと伝えられている」

ちーこは空を見上げた。

ちょうど一羽の烏が、木の枝から社殿の屋根へ飛び移った。

「では、道に迷ったときに助けてくださるのですね」

「そういう願いを託す者もいるだろう」

「先ほどの新吉ちゃんにも必要でしたね」

「お前にも必要だ」

「わたしは迷っておりません」

「昨日、道を間違えて隣町まで行ったと聞いた」

「……それは、お婆さんを送ったからです」

「その帰りに迷ったのだろう」

ちーこは答えなかった。

烏が一声鳴いた。

恒一郎が笑った。

「八咫烏も同意している」

「烏の言葉が分かるのですか」

「今のは分かった」

「嘘です」

境内に、二人の笑い声が小さく響いた。

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