飯倉熊野権現 大江戸編 『帰る道を知る烏』

江戸時代、夕暮れ、ちーこと蒼井 短編江戸(フィクション)
江戸時代、夕暮れ、ちーこと蒼井

その日の夕刻。
飯倉の町が茜色に染まり始めた頃だった。

恒一郎は、見回り仲間から急な知らせを受けた。

「蒼井殿」

「どうした」

「麻布へ抜ける道で、荷を奪った浪人者が二人。ひとりは刃物を抜いているそうです」

恒一郎の表情が変わった。
さきほどまでの柔らかさが消える。
見回り役の顔になった。

「場所は」男が答える。

恒一郎はすぐに腰の刀を確かめた。

「行く」

それを聞いたちーこが一歩前へ出た。

「恒一郎さま」

「お前は三ツ葉屋へ戻れ」

「わたしも」

「駄目だ」

いつもより強い声だった。

ちーこは言葉を失った。

「相手が刀を抜いている」

「でも」

「お前を連れて行く場所ではない」

「恒一郎さま」

恒一郎は彼女を見た。

「今日はもう十分付き合った。まっすぐ帰れ」

そう言って背を向ける。

ちーこは、その背中を見た。

腰の刀。

夕暮れの中へ遠ざかっていく姿。

いつもなら、

「わたしも参ります」

と追いかけるところだった。
けれど、今日は足が動かなかった。
熊野権現で聞いた言葉が胸に残っている。
誓い。
約束。
人は必ず帰ってくるとは限らない。

見回り役である恒一郎が危険な仕事をしていることなど、昔から知っている。
剣術が強いことも知っている。
けれど、強いから傷つかないわけではない。

ちーこは唇を噛んだ。

「恒一郎さま」声が震えた。

恒一郎が振り返る。

ちーこは、笑おうとした。

しかし、うまく笑えなかった。

「ひとつだけ、約束してくださいませ」

恒一郎は黙っている。

「必ず」

ちーこは続けた。

「必ず、戻ってきてください」

いつもの勝気な調子ではなかった。

からかうような笑顔もない。

ひとりの女として、心から願う声だった。

「ちーこ」

「熊野さまの前で、誓ってくださいませ」

恒一郎はしばらく彼女を見つめていた。

やがて静かに答えた。

「分かった」

「本当に」

「ああ」

「必ず」

「必ず帰る」

ちーこは小さくうなずいた。

「では、参ってください」

恒一郎が驚いたように眉を上げる。

「追ってこないのか」

「わたしだって、時と場合くらい分かります」

「本当か」

「……たぶん」

「最後のひと言で不安になった」

ちーこは少しだけ笑った。

「でも、帰ってきてくださいませ」

恒一郎もうなずいた。

「ああ」

そして走り出した。

ちーこは、その姿が見えなくなるまで立っていた。

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