二人は再び熊野権現の前へ立った。
夜の境内は静かだった。
灯籠の火が揺れている。
「お礼を申し上げなくては」ちーこが言った。
「神さまにか」
「はい」
二人は並んで頭を下げた。
祈りを終えたあと、ちーこが横を向く。
「恒一郎さま」
「なんだ」
「昼間のお話、覚えておりますか」
「どの話だ」
「一生わたしを大切にすると誓ってくださるお話です」
「まだ続いていたのか」
「当然です」
恒一郎は笑った。
「では、お前も誓え」
「何をです」
「一生、俺を困らせないと」
ちーこは即座に答えた。
「それは無理です」
「即答か」
「できない約束を神さまの前でするのはいけませんもの」
恒一郎は声を出して笑った。
「お前らしいな」
「でも」
ちーこは少しだけ声を落とした。
「ひとつなら誓えます」
「何だ」
「恒一郎さまが帰ってきたとき」
彼女はまっすぐ恒一郎を見た。
「必ず、わたしが待っております」
恒一郎の表情が静かになった。
「どれほど遅くても」
ちーこは続ける。
「お仕事で疲れていても、傷を負っていても、腹を立てていても」
「お前が腹を立てている場合もだろう」
「……それも含めます」
「多そうだな」
「話の腰を折らないでくださいませ」
「すまない」
ちーこは少し頬を膨らませたあと、微笑んだ。
「帰るところは、わたしの隣ですもの」
恒一郎は言葉を失った。
昼間なら、きっと誰かが笑った。
町人たちが囃したてただろう。
けれど夜の境内には二人しかいない。
恒一郎は、しばらく何も言わなかった。
そして静かに答えた。
「ならば俺も、ひとつ誓おう」
ちーこが見上げる。
「どこへ行っても」
恒一郎は言った。
「必ず、お前のところへ帰る」
風が吹いた。
社殿の屋根で烏が鳴いた。
二人が見上げると、一羽の烏が夜空へ羽ばたいていく。
月を横切り、
江戸の町の方角へ飛んでいった。
「恒一郎さま」
「なんだ」
「八咫烏でしょうか」
「どうだろうな」
「きっとそうです」
「なぜ分かる」
「わたしには分かります」
恒一郎は笑った。
「では、帰るか」
「はい」
二人は鳥居をくぐった。
夜の飯倉には、まだ人の気配がある。
遠くの店から笑い声が聞こえ、
どこかで拍子木が鳴り、町の灯が続いていた。
ちーこは恒一郎の横を歩く。
しばらくして、そっと彼の袖をつまんだ。
「なんだ」
「別に」
「なら離せ」
「嫌です」
「町人に見られるぞ」
「見せておけばよろしいではありませんか」
「何を」
「恒一郎さまは、わたしと一緒に帰るのだと」
また始まった。
恒一郎はそう思った。
けれど袖を振りほどきはしなかった。
むしろ少しだけ歩調を緩めた。
ちーこが歩きやすいように。
彼女は気づいていたが、何も言わなかった。
勝気な娘にも、黙って受け取っておきたい優しさがある。
江戸の町を行き交う人々は、そんな二人を見て笑う。
三ツ葉屋のお嬢さんが、また蒼井の若旦那を引っ張っている。
けれど、本当は少し違うのかもしれない。
ちーこが前へ進み、恒一郎がその後を追い、危ないときには恒一郎が支え、
立ち止まったときには、今度はちーこがその手を引く。
どちらが導いているのかなど、
きっと二人にも分からない。
ただ一つ確かなことがある。
迷ったとしても、遠くへ行ったとしても、二人には帰る場所がある。
熊野の烏が教えた道の先。
それは社でも、町でも、屋敷でもなかった。
互いの隣。
そこが、ちーこと恒一郎にとっての、帰る場所だった。
終

