日が沈んだ。
飯倉の道に灯がともり始めた。
ちーこは三ツ葉屋へ戻らなかった。
熊野権現の鳥居近くに座り、恒一郎を待っていた。
何度も道を見る。
人が来るたび立ち上がる。
違うと分かると、また座る。
「遅い……」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
風が吹いた。
木の枝が揺れる。
頭上で烏が鳴いた。
ちーこは顔を上げた。
一羽の烏が鳥居の上に止まっている。
「あなたは道を知っているのでしょう」ちーこは烏へ話しかけた。
「でしたら、恒一郎さまを連れて帰ってきてくださいませ」
烏は答えない。
「神さまのお使いなのでしょう?」
もう一声。
かあ。
「お願いです」ちーこは膝の上で手を握った。
「わたし、まだあの方に何もして差し上げておりません」
いつも引っ張ってばかり。
困らせてばかり。
自分のわがままに付き合わせてばかり。
けれど、本当は。
いつか蒼井家へ嫁ぎ、
朝になれば恒一郎を送り出し、
夕方になれば帰りを待ち、
疲れていれば温かいものを出し、
嬉しいことがあれば一緒に笑いたい。
そんなことを思っている。
本人には、恥ずかしくて言えないだけだ。
「わたしだって、尽くしたいと思っているのですよ」
烏へ言ってから、
「どうして烏にこんな話をしているのでしょう」と自分で笑った。
そのとき。
遠くから足音がした。
ちーこは立ち上がった。
暗がりから人影が現れる。
ひとり。
いや、二人。
見回り仲間に肩を貸しながら歩いてくる男がいた。
「恒一郎さま!」ちーこは駆け出した。
「走るな」聞き慣れた声が返ってきた。
「転ぶぞ」
「そんなこと、今はどうでもよいです!」
ちーこは構わず走った。
案の定、裾を踏みそうになったが、どうにか持ち直した。
恒一郎の前へ立つ。
頬に小さな傷。
袖にも土がついている。
けれど、ちゃんと立っている。
「怪我を」
「かすり傷だ」
「見せてください」
「大したことはない」
「駄目です」
「ちーこ」
「約束したでしょう」
「帰ってきた」
そのひと言で、ちーこの目に涙が浮かんだ。
恒一郎が少し驚いた。
「泣くな」
「泣いておりません」
「泣いている」
「これは風が」
「先ほどからほとんど吹いていない」
「では煙です」
「どこにも煙はない」
「もう、恒一郎さまは」
ちーこは袖で目元を拭いた。
「意地悪です」
恒一郎は何も言わず、ちーこの頭へ手を置いた。
ほんの短い仕草だった。
けれど、それだけで、彼女の胸の中に張りつめていたものがほどけた。

